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身体を観ること、心を観ることの違い ルアンポー・プラモート師

身体を観る時と

心を見る時には違いがあります

心を観る時は

感覚を感じる

あるいは

心の挙動を観るのです

心が生じたその後にそれを観るのです

一方

身体を観る時

身体のまさしくその瞬間を観るのです

身体に生じて、その後に観るのではありませんよ

身体の今その瞬間を観るのです

心を観ることと身体を観ることには

違いがあるのです

ですから

心を観る時には

それに従って観るのです

バチュバン・サンタティと言います

現在に続くということなのです

怒りが生じたならば

「怒りが生じた」と知るのです

怒りが生じた瞬間というのは

まだサティが無いのです

そして

「怒りが生じた」と知るときに

サティがあるのです

別々の瞬間なのです

一方

身体の現在というものは

現在の瞬間なのです

現在、手を挙げている

現在、口を開けている

現在、話をしている

現在、右左に首を動かしている、頷いている

現在、座ろうとしている

現在、歩こうとしている、座ろうとしている、寝ようとしている


心を観る時には

生じた状態に続いた心を観るのです

それをサティで観るのです

バチュバン・サンタティ(現在の瞬間に続く)

ということなのです

しかし

身体を観る時には

現在のまさに、している瞬間を観るのです

現在手を挙げている最中

~している最中という言葉をつけても構いません

心を観る時には

~既にしてしまった(already) なのです

怒ってしまった後

欲が湧いてしまった後

終わった後にサティで知るのです

身体であればしている最中

手を挙げている最中

手を開いている最中

閉じている最中

このまさにその瞬間 Now なのです

ですから

身体を観る時と心を観る時は

違いがあるのですよ

どちらも「現在」です

心を観る時はバチュバン・サンタティ

現在の後に続くという意味です

もう一方の身体を観る時は

バチュバン・カナ 

今この瞬間、している最中

今ある状態、今なりつつある

今動いているということなのです

仏歴2566年1月21日


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