『DIARY of a Wimpy Kid THE GATEWAY』レビュー

『DIARY of a Wimpy Kid THE GATEWAY』

 職場の女の子(この言い方には語弊がある)に本著を勧められた。率直にいって面白くなかった。あこがれの「サンゴ礁島」でクリスマスを過ごすことになった男の子(主人公)とその両親のドタバタ旅行記だ。面白くない話は、ログラインもワクワクしない。
 面白い話を面白くなかったと言ってから、構造や心情、描写の技術などに切り込んで、「結局は楽しんでいたんだ」と感じてもらうのとは別の話だ。この物語は、終始ドタバタするしかない。面白くない物語には構造も見えないし、構造が見えなければ書けることが少ない。ところが職場の女の子は、面白いから、と私にこれを勧めた。
 すると先日の職場の先輩(男)の言葉が思い出された。
 「開始15分で、レンゴク死ぬなって分かった」
 彼も筆者と同様、あの映画の前後の物語を知らない。しかし彼にはそれが分かったのだという。レンゴクが柱であること、第三幕の糊代になること、ターニングポイントと切断が合致することを確認せずに、それは予測できるのだ。どのように。彼は「哲学」にそのヒントがあると言った。
 「原作者は女性、なぜなら情に訴えるから。レンゴクについては、部外者にしては話しすぎる。あの物語は、セリフの多い順に死んでいく」
なんと!作者の無意識の領域に認識を伸ばして物語を分解していたのだ。いや、それが一般的な読みなのかもしれない。その流れで彼は「飲茶の『正義の哲学』とかいう本があります」(注:正しくは『正義の教室』)と私に紹介した。物語には哲学が必要だという飲茶氏の論を踏襲する形で、例の物語の展開を分析したのだという。
 ならば試してみる価値はある。
 この『Wimpy Kid』の作者に流れる哲学はなにか。
 コメディと哲学を併置したときに真っ先に上るのはニーチェの『ツァラトゥストラ』だ。笑う獅子。快癒に向かうツァラトゥストラの(便宜上の)弟子たち。快癒の証拠は笑いだった。これは男の書いた物語だろう?(Jeff Kinneyという名前を前にしながら)
 セリフの多い順に死んでいく、という情報はどうやって手に入れたのだろう。一度目の通読があったということか。もしくは、少年誌のリズムだろうか。後者だと仮定しよう。ならばコメディのリズムとはなにか。「嫌なことが起こる」のだ。飛行機に乗り込むや否や、自分を挟んで、赤ん坊を連れた夫婦が乗り込む。彼らは太っている。赤ん坊は母親のお膝の上だ。空腹に騒ぎ出すと、父親が自分を乗り越えて「餌付け」する。フライトへの緊張と、オムツの臭いに吐き気を催した主人公が、エチケット袋にボーミットする。もちろん、赤ん坊もつられゲロをする。安息を求めてお手洗いに行くと、機体が揺れる。不安の中に主人公は急いで席へ戻るが、そこは赤ん坊に占拠されていた。
 いくらタッチを軽くしたところで、嫌なことばかりが起きているという事実は変わらない。私が主人公に感情移入している限り、私はこの物語に微笑むことはない。それなら、貸してくれた女の子が、これを面白いと言った理由は何か。そう言えた理由は。
 それは主人公の客観視だ。
 そもそも、人間の生活がこんなにドタバタしていることはあり得ない。あり得ないのだから、あり得ない話として構えればよい。あり得ないのだから、私たちはこの主人公の男の子を、嘲笑の対象として見てよいのだ。私たちは物語に「没入」する「必要はない」。居るかどうかもわからない物語の登場人物に寄り添うほうが可笑しいだろう。
 又吉直樹の『火花』を読むときに、ある積極的没入とでも言えるような「読者の努力」が必要だった。同様に、この物語にもある種の努力が求められるのだ。それは主人公への可逆的な目線であり、現実をベースにした物語の客観視だ。
 さて、私はこの物語、全200ページ中まだ70ページまでしか終えていない。この物語はどうなるか。これは嫌なことが起き続ける物語だ。作者にとって一番嫌なことは?物語が何事もなく元通りになることだろう。はじめとおわりに何も変化がない。だから、『Wimpy Kid』は安心して、最後まで楽しむことができるのだろう。読者が子どもであっても。

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