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途切れて、千切れて、飛んでいく

普段、あまりにも思考がまとまらない。考えていたことが不意に途切れて、繋がって出来ていたはずの言葉は千切れて見失い、思考は四方八方に飛んでいく。

ひとつのことを多く考える時もあるけれど、細かく分けて考えて、最終的になんとなくまあるくまとまっていく方が多い。ふと古き良きインターネットのことを思い出した。まったく知らない誰かが、まったく知らない誰かのためではなく自分自身の精神の平穏を守るために、あるいは途切れて千切れて飛んでいく頭の中を静めるために書いていた心地良い文章のことを。大学1年の頃、なぜ人は文章を書くのかという問いに、私は自分のためにと答えた。今もその考えは変わっていなくて、文章を書くことは自分を癒すことだと思っている。誰かのために書く文章なんて薄っぺらくて受け入れられなくて、誰かのために書きましたという自意識がとても苦手だからだ。自分のために書いた文章が、回り回って奇跡的に誰かのためになっていればそれでいい。だから私は共感を選ばないし、意図的に作り出された共感には微塵も心が反応していかない。きちんと拒否する心になっている。

このnoteは自分の頭の中みたいに書いていく。話題がコロコロと変わっていくし、一文は長くて読めたものでもないかもしれないし、かなり断定的な物言いをしたりもする。でもこれが自分の頭の中なので、書いている側の私は楽しくて、気が楽だ。誰かの理解を考えなくてもいい文章は、とにかく楽だ。最近までずっと理解を先回りして考えていたし、そういう文章を書いていた。でもそういうのは長く続かない。作り物だし。

最近よく途切れ途切れに考えるのは、本を読む場所と姿勢と環境のことだ。かしこまって、本を読むぞと意気込んだ時ほど読めなくて、適当に床に寝転んで(大袈裟な言い方ではなくて最近本当に床に寝転がって作業したり、天井を眺めたりしている)、何気なく開いたページにある文章はぐんぐん読めたりする。そういう時ほど時間がなくて、焦っていて、他にやることがあるのだけれど、面白くなってしまって本から手が離せなくて困っている。最近の経験から考えるに、本を読む姿勢は座っているよりは寝転んでいる方がよく、場所は寝転がれて天候に左右されない場所がよく、静かな環境であると良い。本を読んでいるときは自分の体の輪郭の実感が消えているとなおよくて、ジェルみたいにでろんでろんの人間になって読書するのがとても楽しいと思う。目と手だけが存在を保ってる感じ。

一番楽しい遊び方についても考える。お金をたくさん使った遊びは誰にでも出来て、質も担保されるから失敗がないけれど、満足度がいっつも低い。楽しい遊びってどれだけお金かけたかじゃないんだなあと毎回思って、床とか公園の芝生とかに友達と寝転んでぽつぽつ話してる方が自分にとっては楽しい遊びなんだなと正解っぽいのを見つけ出す。でもその状態が楽しいのって、相手といる時間がどんな時も楽しいことが前提だから、お金をあまりかけなくて楽しい遊びほど難易度が高いのだと思う。だからみんなお金をかけて楽しいを買うのだ。

noteからthe letterというサービスに移動したくて問い合わせをしたら丁寧な反応が返ってきた。ニュースレターっていまいちよく分かってないんだけど、気軽に使えるようなツールであればそれだけで今はもういいな。できればアメブロとかmixiとか、はてなブログとかの雰囲気だと落ち着くなというのはあるけれど。あの時のインターネットが好きすぎたので。tumblerもいいよね。

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