経済支援のルール。
俺と同じ、50歳を過ぎた同年代のスポーツ選手ってさ、チームの監督とかを通り越して、もう協会の役員とかやってるわけよ。
三浦知良さんみたいな現役への執着心はとても尊敬できるんだけど、レギュラーポジションはひとり入ればひとり締め出される。そこにベテランが居座るのは「若手の出場機会」を考えるとどうかって問題はあるよね。
年齢というのは実績のことでもある。20代から30年間仕事をして50歳を過ぎたときにすべきことは、もう自分がゴールを決めることじゃなくて、ピッチの外から物心両面でアシストすることしかないんじゃないか、と思ってるよ。
それは俺が50代だからってことでもなくて、30代であろうと40代であろうと、それなりの仕事で実績を残していなければおかしいはずの人が、専門学校生みたいに「誰か資金援助してくれ。プロフェッショナルの技術はある」というのは矛盾してないかな、と感じるわけです。
実績と能力はまたちょっと違うんだけど、ある程度の就業年数のある大人が自分のやりたいことをする資本のストックがないって、もしかしたら「能力がない、と自分で宣言していないか」という部分が気になる。
それはクラウドファンドのような集金方法を一切認めないってことじゃないよ。宣伝としての方法、コミュニティ作りなど、お金を集める以外の効用もよくわかっている。しかし、なぜそれまで能力をお金にできていないのかが自分でわからない人に、誰かがお金を投入していいのかなっていうのは、よく感じる。
雀の涙ほどの金額だけど、俺が支援するときのルールはいくつか決めている。
まずは、生死に関わる問題。世界中で数百円の支援があれば食事ができて生きられる人がいる。数百円のワクチンがなくて死ぬ人がいる。これは当たり前だけど支援の最優先。俺は数万円なくても死なないからだ。
次に若いこと。学生などの場合は勉強をしなくちゃいけないし、お金を持っていないのは当たり前だ。それから肉体的、精神的などの理由でお金を稼ぐことに支障がある人。これもわかるだろう。
目的を持った行動の場合はちょっと難しい。即物的な欲求ではなく、長い目で見たとき後で役に立つ、教養と言ってしまうと大げさだけど、そういう体験をしたいと思っている人。これは抽象的なセンスの問題が大きいから判断が大変なんだけど、もし自分が若いときにそれを支援してくれる人がいたらうれしかっただろうなと思っていることで、今募集している、「ガウディを見てみたいなあ」みたいなやつ。
https://note.com/aniwatanabe/n/n56870b255ba5
これについては経済的な支援というよりは「応援」の意味合いが強くて、たとえばサラリーマンなんだけど本格的に演劇がやりたいとか、そういうたぐいで、なんというか、「そういうの、夢があっていいじゃないですか」という気持ちで応援している。『教養のエチュード賞』もそうだ。
反対に、支援しない領域も決めている。それはシビアなんだけど、本当は自己資本でやらなくちゃいけない功名心が目的のことを、大義名分をダシにしてやろうとしていることには協力しない。つまり「街をキレイにしよう」という活動なら賛同するけど、「僕たちは街をキレイにする活動の、イケてるチームを作ろうとしています」が匂うとダメだということ。
それは「いいことをしようとしている自分たちのチーム作り」を援助して欲しいという意味だからで、セルフ・プロデュースを多分に含んでいるなら自分が用意したお金でやればいい。
もし同じ目的の達成のためなら、堀潤さんや国境なき医師団のように情報発信力があり、ジャーナリスト・社会活動家としてのキャリアに信頼が置ける人や団体に支援する。その人に、他人を救うだけの能力があるかは他人が判断するし、その能力がある人は経済的にも自立しているから、実現力はすぐにわかる。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。