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橋の上から見た夕陽。

数年前、「ホタル祭り」に行ったことがある。地方の夏祭りで、特別ホタルがたくさんいる場所でもない。まあ、そういうネーミングだというだけだ。

そこで数枚の写真を撮ってSNSに載せたところ、まったく知らない人からコメントがあって、「全然ホタルが写ってねえじゃん。笑」みたいなことを言われた。その時、ああ、これだなと思った。

自分は仕事でアートディレクション、撮影、編集をしているからそれが変だとは感じないんだけど、そうでない人は、「スイーツ祭り」という記事でスイーツが写っていないのはおかしい、と思うわけだ。

ジェームズ・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』という小説に、郵便配達はまったく登場しない。ではなぜそういうタイトルなのかと言われれば、小説家がそう名づけたかったからという説明だけで十分で、読んだ側が、「出てこないじゃないか」と思おうが、どうでもいい。

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俺の毎日の文章は、その日か前日に撮った写真を選ぶことから始まる。今はギャラリーにあったカセットテープの写真をチョイスしてから何を書こうか考えている。カセットテープが写っているからと言って、カセットの話を書く必要はない。ただなんとなくホタル祭りの話を思い出したから書いている。

映画や文学への感想で、「わかりやすかった」「読みやすかった」というのが多いのに驚く。つまり、わかりにくく、読みにくいものだという前提から出発している。わかりやすく読みやすいものがイコールいいものだ、と考えるような受け手がいることは構わないんだけど、そこにターゲットを定めた作り手を見るのは苦痛だ。

そういうことでもないのかな。そもそも自分がわかりやすいもので育っているから、何の疑問もなくそれを作っているのかもしれない。

表現というのは自分が作る地図の中に人を遊ばせるものだから、埼玉の両側にドイツとブラジルが描かれていてもいい。そこに楽しみや驚きがあるんだけど、「埼玉の隣がドイツのはず、ねーじゃん」と言うのだ。

写真で言えば、大事なのは編集だ。何を撮りたいから何を撮って、その中から何を見せて何を見せないかを決めるのが編集。それがないと、「イベントに行って写真を撮りました。そこにいたのはこの人たちです。ブラスバンドも演奏していました。屋台でおでんを食べました。ホタルがいました」という「小学生の絵日記」か「説明書の挿絵」にしかならない。インスタにスイーツをアップするのは何も悪くないんだよ。でも。

文学性がないものは表現とは呼べない。

ある知人が奥さんを亡くし、数年してからSNSにアップされた写真を見たことがある。奥さんが元気だった頃にいつも一緒に散歩したという橋の上からの夕陽が映っていた。そこには言葉で多くの説明はなかったけど、誰も写っていないその写真を見て、俺は声が出るほど泣いてしまった。

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