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写真と差別:写真の部屋

昔、現像してみると、「正月、入学式、海水浴、紅葉、スキーが一本のフィルムに写っていた」なんていう笑い話がありました。家族が撮る記念写真なんていうのはそんなもので、目的はほぼ『できごとの記録』だけでした。

いまだにフィルム・デジタル論争をしているのをあちこちで見かけますが、貴重だったフィルムで一枚写真を撮るときは、残すべき価値があるかどうかを吟味していたんですね。ですから今のように何でもない日にパチパチ撮るようなことはありませんでした。写真というジャンルの洗練から考えると、スマホやデジカメで撮っている今の方が、いいものが生まれる可能性が圧倒的に高くなっていると思います。

それが「意味の呪縛からの脱却」です。

最初に書いた年間行事は、こういうことをしたという証拠写真のようなものですからただの記録にとどまり、もちろんそれも重要なのですが、できごとの前後がバッサリ抜け落ちています。でも何かのイベントを思い出すときにはその前後のどうでもいいことの方が心に残っていたりしませんか。

たとえば結婚式なら、皆が「ケーキ入刀」のシーンを撮ろうとその瞬間にカメラを持って群がりますが、実は「式の途中で新郎が居眠りした」「あの日は結婚式場の駐車場でお母さんが車をぶつけたよね」というような思い出話をしているはずで、ケーキ入刀はよかったな、などはあまり語られないものです。

フィルムのような物理的限界がないデジタルだとすべてを記録するようになり、無意味に見える「前後の瞬間」がすべて残るようになりました。以前その話を結婚式の撮影をしているカメラマンと話したら、「僕はメイクをしているときや家族が準備しているときも撮っていますけど」と、ちょっと憤慨したように言いました。そうじゃないんです。それはメイキング・舞台裏という、新たな予定調和を撮っているだけです。家族が持つ歴史に関わっていない人の介入はそこまででしょう。

アートはテクノロジーによって変化しますが、デジタルの出現は、「あとで消せばいいから取りあえず撮っておく」という理想の環境を生みました。36枚撮りのフィルムだと、残りの枚数を気にして衝動でシャッターを押せません。一週間の旅行であれば、初日に大部分のフィルムを使ってしまうことは考えにくいはずです。するとペース配分ばかり気にしてせっかく心が動いた風景を捨ててしまうのです。だから最初の例のように「空港、エッフェル塔、凱旋門、レストラン、ルーブル美術館、空港」しか残りません。

さらにもう少し話を細かくすると。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。