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除雪車としてのアート。

「アートというモノ」にかかわる立場には2種類あって、単純に、作る側と見る側に分けられる。

皆が快く思わないモノを見せるとはけしからんとか、そこに市民の税金を投入するのはいかがなものか、なんてことが言われているけど、その暴力的な話は「経済と経済を扱う資格」のことを言っていて、アートの定義は誤解という着ぐるみ姿でしか登場してこない。

アートという名のタバスコを日常生活というマルゲリータに振りかけて、より美味しくなればそれでいいし、かける分量は人によって違っていていい。絶対にかけたくない、素マルゲリータが好きだという人の自由だってもちろん認められている。

しかし「辛くて刺激があるタバスコはけしからん」という幼稚な結論が、個人が求める味覚を批判したり、タバスコ製造業者を糾弾する根拠にはなり得ない。

イニシャルがMの、ミシュラン一つ星の日本料理店がある。そこでは炊きたての米の味を感じてもらうためにある特殊な方法でプレゼンテーションがされるんだけど、これは和食における特徴でもある。土台となるマルゲリータの方を極端に洗練させることによって、調味料のタバスコを必要としない方法を提示する例だと思う。アートでもあり禅にも近いけど。

これを体験したことで俺は自分の「白米観」を大きく変化させられたし、和食の底知れなさを感じた。それを体験して知る前の思考や感覚にはもう戻れないという不可逆さこそ、アートの恐ろしさだと再確認することもできた。

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アートとは「トリックアートや、写真のように見える上手なデッサンや、タペストリーに印刷されがちな南国のイルカの絵のこと」と理解している人が多いことはよく知っている。何かを見て「アートですね」「シュールですね」と言う人のアレだ。

受け取る側の意識は千差万別だから個人的な感覚として処理すればいいんだけど、二重国籍のパスポートを持った人が国境を行き来して批評する、立場の不思議さには頭をひねることもある。

ある映画を批評している人が、「登場人物が何も成長していないし、逃げている」と語っていた。俺がその映画を観て素晴らしいと思った理由が、教条主義的な成長を当然のこととして黙認せず、他人から見たら逃走だと思われるモチーフに救いを求める表現をした、という新しさにあったので、まるで批評の意味が理解できなかった。

見る側はどんな見方をしても構わない。でもそれが世の中に必要かを規定したり、作り手は善か悪かの判断、という話に踏み込んだ途端、ちょっと待てよ、と思う。俺は他人の批評には興味がないし、自分が作って他人に見せるモノのことだけ考えている。見た人がどう思っても関係ない。

映画の例では、自分は過去にはないこの表現がしてみたかった、という監督の除雪車みたいな行動が、結果として映画を一歩一歩進めていくわけで、遙か後方を眺めて立っている「映画とはこういう描き方をするのが理想だ」という観客の要求には応えなくていい。

日本料理店と、映画批評のリンクは、以下「Anizine」の続きで。

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。