平山剛志

大万物祭と心身神体ワークショップを主催しています。 大万物社 https://dai…

平山剛志

大万物祭と心身神体ワークショップを主催しています。 大万物社 https://daibanbutsusya.com/

最近の記事

【読書感想文】「カラーセラピーと高度消費社会の信仰 ニューエイジ、スピリチュアル、自己啓発とは何か? 加藤有希子 著 サンガ」

【読書感想文】 「カラーセラピーと高度消費社会の信仰 ニューエイジ、スピリチュアル、自己啓発とは何か? 加藤有希子 著 サンガ」  ニューエイジ、スピ、自己啓発は胡散臭い。が、実は胡散臭いのはこれらが蔓延る現代社会そのものなのかもしれない。そしてその現代社会を生きる「わたし」自身がすでに相当うさんくさい存在であることは免れ得ない。この「うさんくささ」とは一体何なんだろうか?うさんくさいとは本物ではないとか本当ではないとか作為的に作られたものというか仕組まれたものとかそんな

    • 【セラピー的表現の危険性】

       表現にはどんなジャンルにも自己セラピー的な表現がある。自身の病や傷を癒すもしくは再生するための表現。勿論それは表現にとって大切な要素である。 が、自己セラピー的な表現を無自覚にしてしまう時、無関係な人を巻き込んで傷つけることになる。セラピーというのは傷を直接扱うのだから、 その周辺では投影や転移がばんばん起こる。周囲の人がその投影や転移に無自覚に巻き込まれるとき、その表現者の傷を埋めるために犠牲になる人が出たり 、また傷が傷を増やすような自体が起こる。これが個人的な傷ならま

      • 【読書感想文】「精神世界のゆくえ 宗教からスピリチュアリティへ」 島薗進 法蔵館文庫

        【読書感想文】 「精神世界のゆくえ 宗教からスピリチュアリティへ」 島薗進 法蔵館文庫 平山の身内がとある新宗教系のカルト宗教に嵌まっていて、家族自体が精神的にも経済的にも被害を受けていた時期があり、カルト的なものに対しとても嫌悪感がある。だけれども、人間が「救い」や「癒し」を求めるその心情はとてもよくわかるし、近代的な理性や知性だけでは「救い」や「癒し」はもたらされないこともよく知っている。カルト化するのが悪いのであってそのような「救い」や「癒し」を求め何らかの実践をす

        • 人間になりたい

          【人間になりたい】  欲望、願望、夢、それを何と言ってもいいけれども、例えば「プロ野球選手になりたい」「お金持ちになりたい」「有名になりたい」「モテたい」「美しくなりたい」「贅沢したい」「安定した暮らしがしたい」「貧困から抜け出したい」「愛されたい」「差別されたくない」「…」と何でもいい。何でもいいが、それがどんなに卑近なものであっても欲望や願いの根底には「人間扱いされたい」という想いがある。欲望や願望が叶わない苦しさには自分が「人間あつかいされてない」という苦しみと疎外感

        【読書感想文】「カラーセラピーと高度消費社会の信仰 ニューエイジ、スピリチュアル、自己啓発とは何か? 加藤有希子 著 サンガ」

          【読書感想文 A.ミンデル ユング心理学の新たな発展/シャーマンズボデイ】

          【読書感想文 A.ミンデル ユング心理学の新たな発展/シャーマンズボデイ】 ・A.ミンデル ユング心理学の新たな発展  吉福伸逸 編集・監訳 山王出版 ・シャーマンズボディ アーノルド・ミンデル 著 青木聡 訳 藤見幸雄 監訳解説  アーノルド・ミンデルさんが亡くなられたと最近知りました。ミンデルは平山が多大な影響を受けた人で、平山がいつも身体が、身体が!身体が♫…と喚いているのもミンデルの影響が大きいです。また平山が心身相関的な身体技法に取り組むきっかけになったのもミンデル

          【読書感想文 A.ミンデル ユング心理学の新たな発展/シャーマンズボデイ】

          【読書感想文『神と人のはざまに生きる 近代都市の女性巫者』】

          『神と人のはざまに生きる 近代都市の女性巫者』 アンヌ ブッシイ 著 東京大学出版会 「私の白高さんはそうした軽薄な振る舞いを許しません。行は絶対でなければならず、限りがあってはならないのでした。」(本書p84)  絶対でなければならず、限りがあってはならない。なんと厳格なことだろう。人間は当然相対的だし、有限。誰かと比べて劣っていて優れているし、食べなければいけないし寝なければいけない。絶対でなく、限りがあることが軽薄なのであれば常人はみな軽薄であることになる。そし

          【読書感想文『神と人のはざまに生きる 近代都市の女性巫者』】

          【読書感想文『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』】

          【読書感想文】 『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』 赤坂真理 著 医学書院  平山はアディクションとか依存症ということばをなるべく使わないようにしている。というのもこのことばはなかなか厄介で、どんな事象に対してもアディクションのひとことで説明できてしまうような危うさがあるからだ。 本書では >アディクションとは、主体性を発揮したくてもできない状態のことだ(p017) >さらに考えてみる。対象から離れられないという意味に強調を置くと、わたしとして

          【読書感想文『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』】

          【正気と病気と狂気】

           社会と関わりたくないという気持ちはとてもとてもとてもよくわかる。社会と関わる事は「病気」にならなければいけないような側面があるからだ。社会は自然ではない。ある意味人間が作った不自然なもので、その規模や複雑さが増えれば増えるほどその社会は不自然さを超えて「病的」になる。そんな「病的な社会」に適応しようとすると、必然的に「わたし」もまた病的にならざるをえない。その事に気が付いた人間にとっては社会に参入することはとても苦しいこととなる。病気にならなければならないのだから。とはいえ

          【正気と病気と狂気】

          【瞑想→心理→身体→瞑想→…/神体・心体・身体と「わたし」】

          【瞑想→心理→身体→瞑想→…/神体・心体・身体と「わたし」】  いきなり瞑想すると、最初はきもちよくても必ず心理的な壁にぶつかる。思い出したくない過去を思い出したり、克服できないコンプレックスに襲われたりすることになる。だから瞑想には心理療法的な補助が必要となる。心理療法的な何かしらをやっていると最初はいろんなことが理解できてコンプレックスを克服できたりもするけど、心理を突き詰めると心理療法的な思考や働きではどうしよもない領域にぶつかる。その領域とは身体そのもので、心身相関

          【瞑想→心理→身体→瞑想→…/神体・心体・身体と「わたし」】

          【感情を感染させないために】

          【感情を感染させないために】  ふだん怒りを抑圧している人の怒りはこちらに感染しやすい。それは怒りだけではなく、悲しみや諦めや絶望も、それが抑圧されたものであればあるほどその感情は感染しやすい。ある人物やある集団の行為を見てそれにとても怒りや悲しみを感じたならば、実はその怒りや悲しみはその人物や集団自身のものであることがままある。本人が感じずに抑圧され行き場のない感情は他者が「感じる」ことになるのだ。  おれは表明する。怒った、悲しい、悔しい、苦しい、痛い、といちいち表明

          【感情を感染させないために】

          アバンティの本屋が亡くなった

          アバンティの本屋が亡くなった 「アバンティ行ってくる」といえば自分にとってはアバンティの六階にある本屋のことだった。小学校のころに母親に連れてきてもらっていらい何度も何度も通った本屋。イオンモールの大垣書店ができるまではおれが住んでいる東九条地域には大きな本屋は無かった。アバンティの本屋には専門書がたくさんずらっと並んでいて、中学生の頃、背伸びして分かりもしない本を買って読んでいたけど、背伸びするためには背伸びできる環境が必要で、アバンティの本屋はおれにたくさん背伸びさせて

          アバンティの本屋が亡くなった

          【軽薄さが人を殺す】

          おれはあまりにも酷いことがあっても絶望したり、希死念慮が湧いたりはしないのだけれども、軽薄さに触れてしまうと軽く絶望する。もちろん本当に死なないけど、もういいかな、くらいは軽く思う。  善悪と軽薄さはまたちがう。悪意に触れると嫌な気分にはなるけれど「なんだこのやろー!」と逆に元気が出たり学ぶこともあったりもする。でも一見善いことでも内実が軽薄だとそれに触れただけで軽く落ち込む。元気がなくなる。軽薄な善は悪よりもタチが悪い。承認欲求を満たすため、自分の実績を作りたいがため、小

          【軽薄さが人を殺す】

          【詩と自己実現】

           詩と自己実現とはもっとも遠いところにあるもので、「わたし」が詩に奉仕するならまだしも、詩を使って名を売るとか勝つとか何者かになるというのは詩とは最も遠い営為である。詩と自己実現が結びつくとそれは自己啓発に堕するだろう。もちろん堕するのは詩ではなく「わたし」の方である。詩が詩であるならはそれが堕することは無い。絶対に。自己啓発まがいの行為を詩と称してことばを弄んだ罰は必ず本人に帰って来る。必ずだ。詩は恐ろしい。詩は野に咲く花で、野に咲く花ほどおそろしいものはない。調子にのって

          【詩と自己実現】

          【「わたし」の幸せと身体の幸せ 部分運動と全身運動】

           「わたし」の幸せと身体の幸せは違う。何故違うかというと、「わたし」と身体とは、数万年かけて分裂分断してしまったからだ。「わたし」の幸せとは何かといえば、衣食住が安定しているということは基本にあるのはもちろん、お金がたくさんあるとか、人気があるとか、誰かに勝ったとか、偉い人に認められたとか、社会的に成功したとか、あの山に登れたとか、承認欲求が満たされるとか、…、何にせよ「問題」が→「解決」し→望みの「結果」を「手に入れる」事に尽きる。それは終わりなき欲望の追求と成就のプロセス

          【「わたし」の幸せと身体の幸せ 部分運動と全身運動】

          信じることと知覚と身体

          【信じることと知覚と身体】  目の前にリンゴが在る。この目の前のリンゴの存在を「信じる」人はいないだろう。疑う余地なく自明のものとしてリンゴは存在する。疑う余地なく自明のものとして存在するものを「信じる」必要は無い。神の存在を信じている人がいる。なぜ神を信じる必要があるかといえば、神は自明のものではないからで、その存在に「疑いの余地」があるからだ。一方、神を信じない人がいる。この場合、信じないということの意味は二つあって、「神など存在しないのだから、信じる必要がない」という

          信じることと知覚と身体

          身体のことは身体が決める

           身体のことは身体が決める。「わたし」が身体を支配しようとする時、身体はこわばり「わたし」は硬直する。「わたし」が身体を抑圧する時、身体は歪み「わたし」は崩壊する。「わたし」が全てを決定できるなどいうのは思い上がりと妄想でしかない。身体あっての「わたし」なのだから。身体はどこまでも現実。  身体のことは身体が決める。「社会」が身体を支配しようとする時、身体はこわばり「社会」は硬直する。「社会」が身体を抑圧する時、身体は歪み「社会」は崩壊する。「社会」が全てを決定できるなどいう

          身体のことは身体が決める