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【読書感想文『神と人のはざまに生きる 近代都市の女性巫者』】


『神と人のはざまに生きる 近代都市の女性巫者』

アンヌ ブッシイ 著

東京大学出版会

「私の白高さんはそうした軽薄な振る舞いを許しません。行は絶対でなければならず、限りがあってはならないのでした。」(本書p84)

 絶対でなければならず、限りがあってはならない。なんと厳格なことだろう。人間は当然相対的だし、有限。誰かと比べて劣っていて優れているし、食べなければいけないし寝なければいけない。絶対でなく、限りがあることが軽薄なのであれば常人はみな軽薄であることになる。そしてそれは事実そうなのだ。

「軽薄さが人を殺す」と度々平山はわめいているけれども、では軽薄さとは一体何なのかというとその答えはなかなか難しい。平山が軽薄さを忌み嫌うということは、少なくとも自身は「軽薄ではない」と思っているわけで、でも「軽薄ではない」ということは実際どういうことなのだろうか。真面目である事、真剣である事、謙虚であること、誠実であること、だろうか?何か足りないというか、追いつかない感じがある。ましてや「軽薄ではない」者が自身のことを真面目だとか真剣だとか謙虚だとか誠実だとか言わないだろう。やはり「軽薄ではない」とは「絶対でなければならず、限りがあってはならない」ことなのだろうか。

「何事も心いっぱい、真剣に捉えたら、そう、不思議で面白いことがたくさんおこります。しかし、人間はますます軽薄になりつつあります。戦前、信者宅で神さんを拝みに行った時には、それが続く三〇分か四〇分の間、家人の誰もが静かにするように心得ていました。戦後になってからこの点について少しづつ皆が横着になってきました。たとえば、テレビをつけたままにしています。でも神さんは、私の口を借りて、お告げの真っ最中に「うるさい。テレビを切りなさい」と叫びます。するとみなが「玉姫さんは恐い」と言います」(本書p202より引用)

「軽薄ではない」ということには確かに何か「恐さ」がある。厳格さというか厳粛さというか。先の文章をもう少しながく引用する。

「鞍馬の山奥に三日、ときには一週間、籠りました。多くの人々がやってきてはすぐさま帰ってゆくのでしたが、私の白高さんはそうした軽薄な振る舞いを許しません。行は絶対でなければならず、限りがあってはならないのでした。」(本書p84)

やはり「軽薄ではない」ということには何か徹底したものがあって、それは「絶対でなければならず、限りがあってはならない」。では平山が絶対でなければならず、限りがあってはならない」ほどに徹底しているのかといえばそんな事はなく、本書の主人公中井シゲノから見れば平山も一人の軽薄の徒にすぎない。

 引用文の中にでてきた「白高さん」とか「玉姫さん」とは女性巫者である中井シゲノを依り代とする神様のことである。太古より世界中に巫覡、巫女やシャーマン的存在はいるが、シャーマンは自分の意思でなれるものではない。シャーマンや巫覡になる人は神が選んだ人だけ。神に選ばれた人はその後想像を絶する苦難の道を歩むことになる。有限であるその人の身に「絶対でなければならず、限りがあってはならない」何かを背負わされるのだから。その運命は不条理極まりない。

 だから「絶対でなければならず、限りがあってはならない」何かから逃げることができる近現代人は必然「軽薄で在らざるを得ない」。神に選ばれた人に自由なんてものは無い。そこにはただただ不条理な運命があるだけだ。とはいえ、「神から一方的に選ばれる」とまではいかなくても人間のこころにはこのような不条理な運命が内在している。「わたし」の人生を全て台無しにしてぶち壊してでも表現され実現されることを待ち望んでいる「何か」が人間のこころの中にはある。その「何か」を封印するためには人は「軽薄にならざるをえない」。なんせその「何か」は軽薄さを嫌うのだから。

 平山は20代、30代はずっと誰にも発表することのない絵や物語を描き続けて来た。こころの底にある「何か」によって強制的に描かされてきた。強制的に、というのはなんせ描かなければ身体が痛み出すのだ。だから描かざるをえない。しかも描いても描いても終わらないし苦しいしつらいしんどい。ましてや誰にもどこにも発表すらしない絵を。社会的には何もいい事は一つも無い。無理解にもさらされる。こんなことをして何になるのかとも思うし、でもその苦しさには根拠の無い「確信」があった。勿論平山の苦しみなんぞ中井シゲノに比べれば屁のようなものだ。ここまで鮮烈で強烈で厳格に厳粛には生きる事はできない。平山はそれを「神様」と呼ぶことは無いけど、その「何か」によって強制的に人生を破壊されそして表現させられてきた者として中井シゲノという存在がいたことがとてもうれしくありがたいし、中井シゲノの人生や在り様やことばをこうして本で読むことができるのは同じような運命を生きるものには希望となる。

「シゲノに観察される憑依の技法集と句過程の推移は、次のように要約される。生きる目標の喪失と日常的秩序の破綻は、いかにしてその秩序を回復し、生きる意義を見出すべきかという探求にシゲノを押しやった。彼女の生活秩序の破綻は、個人的(失明、虚脱)、家庭的(母親との死別、夫の死)、社会的(強要された結婚、寡婦)次元におよんでいる。この秩序回復は、三つの次元において、すなわち、個人的次元(光、活動)、家庭的次元(大阪での子供たちとの同居)、社会的次元(ある共同体─信者集団─の中心的存在)において実現されたが、シゲノはその実現を彼女が「白高さん」と呼んでいる何者かが提供してくれる情報と指示のおかげでなしえた。しかしこれによって、社会的同意に基く以前の生きる意義は、もう彼女とは縁の遠いものとなり戻る事は無く、日常ではない世界の職能者として日常世界の秩序に根ざしていくことになる。このように考察すると、シゲノの「異なる」存在である「白高」は、既成秩序を覆して、新しい秩序と意義を再構築する力をもつものであるといえる。(p233)」

 「絶対でなければならず、限りがあってはならない何か」によって人生を破壊された人がその後どのように秩序を回復していくのかはもちろん人それぞれだ。中井シゲノのように強烈に生きることができる人は稀だろう。だけど中井シゲノの生きた軌跡はそのような人にとっての希望と道しるべになる。人はみな神に選ばれなくとも、運命に選ばれたのだから。そして「絶対でなければならず、限りがあってはならない何か」によって破壊された人生を回復再生するのもまた「絶対でなければならず、限りがあってはならない何か」によってなされるのだ。その事が体感としてわかると道は開ける。

 実はどんな人も多少なりとも「神と人のはざま」に生きている。人に寄り過ぎればこころを失い病んでしまう。神に寄り過ぎれば社会性を失い人生は完全に破綻する。だから「はざま」に生きることが大切なのだ。神をいうことばではなく何でもいい。「こころと人のはざま」「世界と人のはざま」「身体と人のはざま」。本書はそんな「はざま」に生きる人すべての道しるべとなるだろう。そして軽薄に生きざるを得ない、軽薄さに葛藤を抱える近現代人にとって中井シゲノという人間がいたということは希望である。

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