【セラピー的表現の危険性】
表現にはどんなジャンルにも自己セラピー的な表現がある。自身の病や傷を癒すもしくは再生するための表現。勿論それは表現にとって大切な要素である。 が、自己セラピー的な表現を無自覚にしてしまう時、無関係な人を巻き込んで傷つけることになる。セラピーというのは傷を直接扱うのだから、 その周辺では投影や転移がばんばん起こる。周囲の人がその投影や転移に無自覚に巻き込まれるとき、その表現者の傷を埋めるために犠牲になる人が出たり 、また傷が傷を増やすような自体が起こる。これが個人的な傷ならまだいい。作品のテーマがある特定の地域であったり、社会問題であったりした場合は最悪だ。 傷の巻き込みはその地域や問題にまつわる人みんなに広がる。 その表現者はそれですっきりするかもしれないが、混乱と恨みと怨嗟と新たな傷がその地域や集団に残される事になる。 たいてい自己セラピーに無自覚な表現者はそんなことに気が付きもしないのだが、不幸な事は自身が作った新たな傷はやがてまた自身に帰ってくる。 つまり無自覚な自己セラピーは結局は何も癒さないどころか、新たに不要な傷を作ってお終いという結果にしかならない。
「傷」がある時、「わたし」と「こころ≒身体」は分裂して不一致を起こす。病んでいるという状況は端的に「わたし」と「こころ≒身体」との不一致を言う。 「わたし」と「こころ≒身体」が一致する時、そこに病は無く、健康…というか、ただ自然がそこにある。
さて、自己セラピー的表現が失敗する時とはどういう時か。それは「わたし」を癒そうとする時である。 「傷」によって分裂した「わたし」と「こころ≒身体」。この「わたし」を癒そうとすると必ず失敗する。 失敗するどころか不健全なナルシシズムを増長させることになる。逆に「こころ≒身体」を癒す方向で表現するなら、道は開かれる。 「こころ≒身体」の場合、「癒す」ということばは不適切で、再生とか新生ということばの方がしっくりくるが。 傷が癒える過程は千差万別で決まった道は無いが、「わたし」が消える時、「こころ≒身体」の中で「わたし」が再生し、 傷の回復とともに新たな「わたし」が生まれる、と書くとロマンチック過ぎるかもしれないが、何せ古い「わたし」が消えるというニュアンスは大切になってくる。 だが「わたし」を癒そうとすると「わたし」は消えることができない。だからひたすらただ「わたし」の話をするような表現、 ひたすら「わたし」の話でしかないような表現は非常に危険である。それは「傷ついたこころ≒身体」の抑圧にしかならないからであり、 抑圧された「傷ついたこころ≒身体」は周囲の人に投影され、その投影を引き受けた人は傷を負う。
傷ついた「こころ≒身体」を表現しようとするなら「わたし」は消そうとせずとも自然に消える。 そして傷から新たに「わたし」は生まれる。傷ついた「わたし」を癒そうとするとそれは表現ではなくナルシシズムの露出でしかなくなる。 癒しとかセラピーということばはそもそもが自己中心的、個人主義的なニュアンスがあって不当なナルシシズムを増長させる側面がある。 なので表現でセラピーや癒しをしようとするとそもそものスタートを間違うことになる。大切な事は「わたし」の話をする前に、「こころ≒身体」に耳を傾けよく聴く事だ。 こころの、身体の、傷から発せられる音や声を。あらゆる表現はまず聴くことから始まる。 話す前に聴け。傷の音を、傷の声を。傷の話を。立ち止まって聴く事が再生の始まりで、そこから踏み出す一歩が表現となる。 セラピーすんな、癒すな、聴け。顕せ、炸裂させろ。傷にこそ宇宙は咲き誇る。
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