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【瞑想→心理→身体→瞑想→…/神体・心体・身体と「わたし」】

【瞑想→心理→身体→瞑想→…/神体・心体・身体と「わたし」】

 いきなり瞑想すると、最初はきもちよくても必ず心理的な壁にぶつかる。思い出したくない過去を思い出したり、克服できないコンプレックスに襲われたりすることになる。だから瞑想には心理療法的な補助が必要となる。心理療法的な何かしらをやっていると最初はいろんなことが理解できてコンプレックスを克服できたりもするけど、心理を突き詰めると心理療法的な思考や働きではどうしよもない領域にぶつかる。その領域とは身体そのもので、心身相関とはいうけれども、実は身体は心理とは異なる神秘的な「場」というか、「働き」をする領域があってその身体そのものの「働き」に通じていないと心理は上手く波に乗っていかない。で、身体にとりくんでいると今度は瞑想的な何かが必要になってくる。というか、勝手にそうなる。身体に入っていけばわざわざ瞑想しなくともお勝手に瞑想状態になる。その瞑想状態はある限界にぶつかり、そしてまた心理へと向かう。その心理的な「場」や「動き」もまたある限界にぶつかり、身体へと向かう。…。このくりかえし。

 つまり、「神理→心理→身理→神理→…」という繰り返し。この三つのうちどれかに偏ってもうまく行くことは無い。ことばあそびを続けるならば「神理→心理→身理→真理→…」と四つにしてもいいのかもしれないけれど、それはさておき。人間には三つの体があるともいえる。神体、心体、身体。または神も心も身もひとつの体の三つの顕れ方の違いだともいえる。現にこの三つはグラデーションである。

 話は飛ぶが、平山は身体表現を勝手に三つあるいは四つに分けている。「儀式」「パフォーマンスアート」「即興」そして「演劇」。先の図式に当てはめるなら「儀式≒神理」「パフォーマンスアート≒心理」「即興≒身理」となるだろうか。もちろんこの分類は平山が勝手にそうしているだけでこの分類に普遍性はない。どのジャンルにも「神・心・身」は全て含まれている。その比率や傾向の違いがあるというだけだと思う。ちなみにここに「ダンス」や「舞踏」を含めていないのは平山が「踊る」ということがどういう事なのかよくわからないから含めていない。もしかしたら「踊る」ということは「神・心・身」の基底にある「体」そのものの事なのかもしれない。

 さて「神・心・身」をぐるぐるするのが良いというのであれば、表現?においても「儀式→パフォーマンスアート→即興→儀式→…」をぐるぐるした方が良いという事かもしれないし、平山はそうしている。「儀式≒場」「パフォーマンスアート≒行為」「即興≒存在」とすると、「演劇」とは「所有」になるのかもしれない。事実演劇は台本≒言葉が身体を制御し、ある一定の時間、所有するわけで。それはとても「自我」的な何かなのかもしれない。「自我」が体を制御し所有するような表現形態。

 はじめの話に戻るとそもそも「わたし」は何故瞑想するのだろうか?「わたし」自身が「きもちよく・たのしく・しあわせ」ならば瞑想も心理療法もする必要は無い。「わたし」が「不快で、不愉快で、不幸」だから瞑想や心理療法を必要とする。そもそもは「わたし」の問題。瞑想するのも「自我≒わたし」だし、心理療法するのも「わたし」だし、身体に入っていくのも「わたし」。だけどひとつ言えるのは、「わたし」は瞑想によって、心理療法的な何かによって、身体的な何かによって、「変容」し「生まれ変わる」。少しだけど、「不快で、不愉快で、不幸」が「快・楽・幸」に変容する。だけどそれは「自我≒わたし」が演劇的態度を捨てた時にしかその変容は起こらない。台本を捨てること。監督の指示に従わないこと。舞台を降りること。もしかしたらそれは「わたし」にとっては敗北かもしれない。だけど演劇を続ける限り「わたし」の「不快、不愉快、不幸」は終わらない。勿論、自我そのものは悪くないし、演劇そのものが悪いわけではない。演劇もまた必要ななにがしかなのだけれども、「瞑想をする事」と「瞑想の演劇をする」こととは違う。これは心理にも身理にもあてはまる。変容するにはこの「演劇を止める」という態度が必要で、これがいちばん難しい。だけど無理な演劇を続けていると必ず人生がクラッシュする。「神理≒運命」がクラッシュし、こころは病み身体は怪我を負う。

では演劇を止めるうまい方法はあるのかといえばそんな方法はない。そして演劇を止める必要は無い。でも実は演劇はたびたびクラッシュしている。小さくクラッシュしている。「急いでるのに電車に乗り遅れた(運命)」「ふいに悲しくなる(病気)」「足の小指をたんすにぶつけた(怪我)」という小さなクラッシュを逃さない。この小さなクラッシュこそ演劇が止まった瞬間で、この瞬間こそ変容の「時」だ。また、小さなクラッシュは「体」そのものからのメッセージでもある。この「体」の声を無視しない。「体」の声に耳をすませるならばもはやそれが「神・心・身」どの領域であるとかアプローチであるとかはあまり関係なくなる。

演劇は「わたし」を再現する。「体」はわたしを再生する。社会には再現性が必要。生命には再生が必要。変わらないことと変わること、ともに「わたし」には必要で、「体」は不変と変容と両方を叶え続けてくれている。そんな体におれはいつも頭が下がる想いです。

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