【詩と自己実現】
詩と自己実現とはもっとも遠いところにあるもので、「わたし」が詩に奉仕するならまだしも、詩を使って名を売るとか勝つとか何者かになるというのは詩とは最も遠い営為である。詩と自己実現が結びつくとそれは自己啓発に堕するだろう。もちろん堕するのは詩ではなく「わたし」の方である。詩が詩であるならはそれが堕することは無い。絶対に。自己啓発まがいの行為を詩と称してことばを弄んだ罰は必ず本人に帰って来る。必ずだ。詩は恐ろしい。詩は野に咲く花で、野に咲く花ほどおそろしいものはない。調子にのって言葉を慰み者にすれば、詩は必ず「わたし」を破壊するだろう。野に咲く花は野に咲く花でしかないからだ。
詩人という呼称があるけれども、厳密に言えば詩人など存在しない。現実にはただ詩しかないからだ。それは恐ろしく残酷なこと。「詩人」は必ず最後「詩詩」となる。詩の前に人など存在することはできないからだ。詩を前にすればあらゆるものは詩としてしか存在できない。それはもはやことばでは表現できないほどの時間で、故に詩は同語反復でしか表現できなくなる。だから詩人は最後かならず詩詩となる。詩詩として生きる者は災いにて幸い。雨を乞い、雨降れば一緒に大地にしたたり花だけを残す。詩詩として、雨雨として、花花として笑う。
笑えない奴が詩を自己実現の道具にする。詩は、奴を笑わせるために奴を狂わせる。あなたが詩を愛さなくても、詩はあなたを愛している。だから詩はあなたを狂わせてでも笑わせようとする。詩詩として海海。笑え狂え咲け海海として。詩は堕したおまえも愛している。笑え笑え海海として詩詩としてわらえ
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