見出し画像

【軽薄さが人を殺す】

おれはあまりにも酷いことがあっても絶望したり、希死念慮が湧いたりはしないのだけれども、軽薄さに触れてしまうと軽く絶望する。もちろん本当に死なないけど、もういいかな、くらいは軽く思う。

 善悪と軽薄さはまたちがう。悪意に触れると嫌な気分にはなるけれど「なんだこのやろー!」と逆に元気が出たり学ぶこともあったりもする。でも一見善いことでも内実が軽薄だとそれに触れただけで軽く落ち込む。元気がなくなる。軽薄な善は悪よりもタチが悪い。承認欲求を満たすため、自分の実績を作りたいがため、小銭を稼ぎたいがため、自己実現をしたいがためになされる「善き」こと。なぜこの手の軽薄さに触れると軽く絶望してしまうのかというと、軽薄さというのは実はその当人にとっての「絶望」の表現でもあるから。そして軽薄さとはその人にとっての「復讐」でもあるから。「軽薄さ」を見せつけられる時、おれは「復讐」されている。本人は全くそのことに気が付いていないというのが軽薄さの厄介なところ。軽薄な人というのはたぶん人生の早い段階で絶望を経験している。そしてその絶望に蓋をしたまま生きている。その人の軽薄さに触れた時おれが軽く絶望するというのはその人の蓋をしたはずの「絶望」がこちらに伝染しているのだ。人の気分や感情が移るように絶望もまた伝染する。絶望が絶望のまま伝染するのは良いのだけれども、善を纏った絶望であるというのが厄介で、それが復讐であることに本人が一切気が付かない。本人は「善き」ことをしているのだから。そういう意味ではきちんと自覚している悪の方がましなのだ。絶望を絶望として伝えてくれるから。

 確かアーノルドミンデルの本に書いてあったと思う。オーストラリアのアボリジニーのこどもが地面に落ちている枝を使って地面に線を引いて遊んでいたところ、その父親が怒りを示し、大地の意思と関係なく大地に線を引いてはいけない、それは大地を傷つける行為なんだということをこどもに諭したという話が書いてあった。大地に線一本ひくのにもその大地にちゃんと伺いを立てて許しを得た上で線を引かなければならないのだ。

 この話には一切の軽薄さがない。そしてこれは善悪の話でもない。軽薄の反対は「誠実」だろうか?ことばの上ではそうなのかもしれないが、そうではないと思う。軽薄さの反対とは「わたし」が大地や身体と繋がっているということだと思う。「軽薄ではない」とは「大地=身体が在る」ということだとおもう。

誠実な人はいつも軽薄さに殺される。それは誠実さは軽薄さと相補うような関係にあるからだ。誠実さはいつも軽薄さに疲弊させれて絶望に感染させられ殺される。

 軽薄さに触れてしまった時おれに起こる事は常に身体やこころの喪失である。まず身体の感覚が消えて頭に行き場のないエネルギーが溜まって渦巻くのがわかる。「わたし」が過剰に膨らみ渦巻く。これが軽薄さの伝染症状なのだけれども、こういう時はとにかく身体に帰るしかない。軽薄さに対して誠実さやまじめさで「対抗」しようとしてはいけない。「対抗」すればするほど希死念慮が凝固する。誠実さやまじめさという「アイデンティティ」を一旦捨てて身体へ帰るのだ。身体そのものには希死念慮や絶望は無い。

 軽薄じゃない人ってのは、ちゃんと絶望している。その人の身体は絶望を潜り抜けた身体で、そういう身体を希望というのだろう。つまり軽薄さとは希望の無さのことでもある。だからまあ、要は、軽薄な奴ってインケツなんよ。インケツ。疫病神。関わるだけで運が落ちる。しかもおもんない。じゃりんこチエのテツがいちばん嫌いな奴やね。テツはクズやけど決して軽薄ではない。じゃりン子チエの話が笑えて救われているのは軽薄さが無いからなんよ。そしてチエちゃんやテツは決して軽薄さに殺されたりはしない。

 軽薄さに殺されない為に。まず自身が軽薄さに陥らないためには全身でちゃんと絶望すること。他人の軽薄さからはできるだけ距離をとること。もし軽薄さに触れてしまった時は誠実さで対抗せず身体に帰ること。笑う事。風呂入って寝る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?