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懐古主義な私がパキスタンに行くこと

 私には、懐古主義的な要素がたくさんある。懐古主義とは、過去を美化することを意味する。私は、この最先端なテクノロジーに囲まれた、不自由ない現代よりも、比較してアナログと呼ばれる時代を羨ましく思う。今こうしてMacBookに向かいながらも、この前触ったタイプライターが忘れられない。あのキーを打ち、改行するときの音、感触がたまらなく好きだ。ネット環境関係なしに、wordが使えるのだから、むしろタイプライターの方が便利で良いとさえ思う。

 さらに、私はSNSもどうも得意ではない。小さな画面上の、虚像のような世界に囚われて、実際に自分の周りに潜む幸せに、気づけない恐怖がある。LINEも便利だが、文章をじっくり考えて書く手紙の方が好きだ。ポストをのぞく楽しみにこそ、ロマンを感じる。また、電気のなかった平安時代、人々は満月の夜を楽しみにしていた、という話は私のお気に入りである。満月の夜は、いつもに増して明るいため、予定を入れて特別楽しめたそうだ。今の私たちには、満月の日を待ち侘びることも、暗闇に降り注ぐ月明かりの恵みも、感じる機会が少ないことをとても悔しく思う。

 そんな風に、私は生まれる時代を間違えたのではないかと、度々思うことがある。過去に幸せを感じることは、決して時代に対してのみではない。昨日や先週、先月、去年といった、小さな単位の中でも、すぐに過去を懐かしむ。「今幸せだ」と感じることは、とても難しい。大抵は、過ぎ去ってから「あの時幸せだった」と思い出し、自分がその時を謳歌していたことに、後から気付かされる。私は、過去に捉われ、常に「現在」よりも「過去」に意味を見出しているのである。

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 そもそも私が学生時代に励んだ文化研究は、過去を切っても切り離せない、むしろ過去に焦点を置いた学問と言えるだろう。私は、パキスタンの過去をたどり、英領インドという時代に辿り着いた。そして、今度は懐古趣味が私の好奇心をかきたて、資料を探し、実地調査を行うべく、パキスタンに赴いた。しかし、そこで目の当たりにしたのは、「現在」であった。

 英領時代の資料を探し求めて行ったものの、手に入れることは非常に困難を極めた。現地の人は、まるで記録を残していないのだ。私は、ラホール美術館について調査するべく、美術館に行き、スタッフの女性に声をかけた。スタッフに学芸員はいないか、誰か詳しい人はいないか、その女性はただ「そんな人はいない」と答えるだけであった。美術館に隣接した図書館にあるのは、2000年代の資料がギリギリだ。対して、イギリスは、とても几帳面に全ての資料を残している。結局私はイギリスで資料を得たのであった。

 パキスタンで現地の人と過ごしていると、時間感覚はいつも食い違う。待ち合わせ時間なんて、あってもないようなもので、それぞれがそれぞれの内的時間に沿って、日々過ごしている。勿論、宗教的な時間は大切にしているが、プライベートの時間は重要視されていないように思える。昼に朝食を食べることも、21時に出かけることも、躊躇わない。パキスタンにいる間、私の時間感覚は度々狂い、1日はとても長く感じられた。

 極め付けは、言語レベルでの時間の概念の違いだ。パキスタンの公用語のウルドゥー語では、昨日と明日を'kal'といい、一昨日と明後日を'parson'という。どちらを指すかは文脈に委ねられる。今日を起点に、1日か2日かという違いはあっても、過去か未来かという違いはない。これを知ったときの衝撃は忘れられないし、'kal'と’parson'こそ、パキスタンの時間感覚をよく表していると思う。要は、過去でも未来でも、そんなに重要ではないのだ。

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 パキスタンにいると、私は「過去は振り返らず、今を生きろ」と言われているような気がしてならない。しかし、このパキスタンの時間感覚は、いつ行っても見習いたいと思う。過去を美しいとするのもいいが、行き過ぎると、現在と向き合えず、いつか行き詰まってしまうだろう。むしろ、昨日と明日の価値は変わらず、「現在」こそ私たちが大事にすべき時という考え方は、模範にするべきだ。パキスタンを訪れる度に感じる街や人の活気は、そういう日々の前向きな姿勢からきているのかもしれない。一日一日を紡いで、人生に価値を見出すのである。

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