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子供に還る場所。

大切そうに本を抱えた幼い姉妹が、
レジへ向かう父親の後を懸命に追う。

書店で見たそんな光景に、ふいに目頭が熱くなった。

***

両親ともに本の虫。
物心ついた時から、いつもそばに本があった。
本さえあれば、一人で何時間でも過ごせる子供だった。

そんな私の幼い頃の楽しみは、休日の父とのお出かけ。

父の「行くか」の声を合図に、いそいそと車に乗り込む。
行く先は、その頃まだ珍しかった大型書店や少し遠い街の書店。

父が目星をつけていた新しい書店に、偵察がてら出かけるのも楽しかった。
店によってラインナップが微妙に違うのも、面白かった。
ずらりと並んだ背表紙を眺めているだけで、うっとりした。

書店に入ると父は言う。
「好きな本を一冊。なんでもいいけん、選んでこい。」

さぁ、冒険の始まりだ。
天井まで届きそうな本棚いっぱいにずらりと並んだ本、本、本。
それは宝の山だ。別世界への入り口だ。

絵本、物語、伝記、図鑑、辞典。
気になる本を、そっと手に取っては吟味する。
悩みに悩んだ一冊をドキドキしながら差し出す時、いつも父は笑っていた。
その笑顔を見るのも、好きだった。

『漫画以外』という決まりはあったけれど
それ以外なら、何を選んでも決して「ダメ」とは言われなかった。
(こと本に関しては相当に甘やかされた、贅沢な環境だったのだ。)

自分の本を自分で選ぶ。
その行為は、子供だった私にとって、とても晴れがましいものだった。
一人前と認められたようで、誇らしかった。

「決まったか。よし、そんなら買って帰ろう。」
そう言う父は、何冊も本を抱えていて
子供心に「ずるいな」と思わなくもなかったけれど。

じっくり選んだ一冊を胸に抱えて、レジへ向かう。
そのドキドキ、わくわくした気持ち。
今でもはっきりと覚えている。

普段忙しい父と、時間を気にせず一緒に過ごせる場所。
普段厳しい父が、絶対に「ダメ」と言わない場所。
それが書店だった。

今では、父と書店に行く機会もないけれど。
書店より図書館へ行くことが増えたけれど。

新しい世界に触れたい時。
現状に風穴を開けたい時。
ぽっかり時間が空いた時。
「行くか」と独り言ちて、私は書店へ向かう。

目的なんて決めずに。
新しい出会いに胸を膨らませて。
本棚の前に立つ。
それは、私がわたしに還るささやかな儀式。

好きな本を好きなだけ買えるようになった今も。
数えきれないほどたくさんの本を読んだ今も。
一冊を選ぶのは、特別なこと。

じっくりと吟味した本を胸に、レジへ向かう。
子供の頃と同じようにきらきらと目を輝かせて、
誇らしげに、でも少し緊張して。

私は書店で子供に還る。
本を抱え父親の後を懸命に歩いていたあの少女は
幼い日から変わらぬ私の姿。

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