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雨の臭いが相変わらずしている。
7月に入った。
総合大学病院に入院して早いもので2カ月が経った。
これ程長く居るとは当初予定していなかった。
季節も春から夏に変わっている。
病状も入院してから全く別なものになっている。

そういえば妻は東京の実家に逃げったきり、
結局とうとう6月は1度足りとも病院に顔を出すことはなかった。
私の体調を気づかうこともありはしない。

子どもたちは東京の学校や幼稚園に通っていると言う。


あと2日でこの総合大学病院ともお別れだ。
転院して外のクリニックに実家に身を寄せさせて貰いながら通うことになっている。

決まっているのはそれだけだ。

前回、辞世の句について書いた。
書いたら書いたで更に辞世の句が思い出されてしまった。
これも希死念慮に取り憑かれてしまっているからなのだろうか。


手にむすぶ 水に宿れる月影の あるかなきかの世にこそありけれ
紀貫之

手にすくった水に映る月影のように、あるのかないのか定めのつかない我が世であった
 
古金和歌集の選者にして、
平安時代のトップスターの1人である紀貫之の辞世の句である。

三十六歌仙のひとりで、本当か嘘かはわからないが紀貫之の詠んだ歌には幸運がもたらされた「歌徳説話」なるものがある偉大な歌人だ。

そのような歌人でも、最期は自分が生きた世は結局あるのかないのかわからないと表現している。

私は今やはり同じことを強烈に感じている。

いままで私がやって来たことは詮なきことだったのだろうか?

退院が近まって来て色々な方から、
日常の生活から先ずはやって行こうとアドバイスされる。

ただ残念ながら孤独と絶望を味わっている私には空虚な言葉にしか聞こえない。
私を心配して声を掛けて頂いているのは伝わっているし、ありがたいと思っている。
だが本当に心が壊れてしまっているのだろう。
哀れな事に心はまったく反応してくれないのだ。
泣く事すら出来ないくらいに…

壊れてしまった心はどうやったら修復できるのだろうか。。。

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