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タイニー、タイニーを抜け出して

電車に乗っているとほとんどの人は無言
何を思っているのかは窺い知ることはできない
時折、人やリュックや咳き込む音に怪訝な
顔をしているのを見て、ははあんと思う程度

会話をしていても聴こえるこえや表情から
すべてを窺い知ることはできない
時折、表情やことば選び、語気から
時に邪推を含めた推測をする程度

インターネットのせかいでは
普段、ことばにしない思っていることが
制限なく、際限なく垂れ流されている
言えないことが言える
言いたいことが言える
きれいごとじゃあないんだ
善し悪しや正負によらず
目にすることができる
目にすることになる

私が嫌だと思う代表的なひとりをはじめ
言いたいことを言う
言えないことを言う
時の多くは、俯瞰で見た時に
あら、それはそれらを吐き出している
あなた自身のことを言っている、と思い
また、それに気づかないのかしら、と思うことが
しばしばある

そういうものの多くは
似たようなことを繰り返しているし
そんなことないよ、と言われたがったり
よくぞ言ってくれた、と代弁者でありたかったり
開き直ったり、居直ったり
我こそが正しいと主張したりする

同じことをインターネットという手段なしに
日常的に言い放っているのだろうか
日常的に言えるものだろうか

私の場合、むしろ日常生活の中での方が
辛辣なことを言っているかもしれない
それもまた正しくはないのだけれど
インターネットではなくて
日常生活の中で言い放つ方が
より、ことばに責任が出て
直接的な反応や矛先を突きつけられるから
より、考えてから言わねば
と思うからなのだけれど

評論家気取りで、世を斬って
したり顔でいることの愉悦や優越感が
日常生活の空虚や自身の欠如を救っている
のかもしれない
自分に厳しいより、他人に厳しい方が確かに
こころの安全はあるのかもしれない

けれど、私はどれだけ考えたり、もがいても
自分よりもすごい人は山ほどいて
どれだけ考えたり、もがいても
足りないことや知らないことが山積みなのだ
山積みであることが余白であったり
のびしろであったりするし
山積みであることが諦念や絶望を生むけれど
そこに折り合いをつけたり
そこに更に何かを見出すことが
何かひとつの動機づけになる、あるいは
したい、と思い込んでいる

それだけに、どんどんと遠ざかる
クリエイターではないから創作は余白のひとつだし
嫌いなものは駆逐したりはできるわけもなく
遠ざけるしか私にはできない
同じ1日があって、時間の有限を感じるなかで
人の粗を探して、評論家気取りで
悪い方から探すよりもっと
有益なことがあるのだろう、と思うし
どうにかそれとは交わらずにいたい

きれいごとは好まないが、そうだとしても
日常生活のなかで、たとえば電車のなかで
誰かの考えや戯言がぜんぶ聴こえる
わけではないことには大きな意味がある
のだろう

たんなるにっき(その158)

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