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真夜中のドキュメンタリー

眠る前にテレビのスイッチを消そうとした瞬間に番組が始まった。眠らなければ、という気持ちよりも
観なければ、という気持ちが上回る。
或るドキュメンタリーは重苦しく、理解が難しいものだった。ドキュメンタリーの多くは、感動、共感、羨望、悲哀といったものをおぼえるのだが、共感は難しく、またどう受け止めて良いか、についてとても戸惑った。
ひとつの事件が、被害者家族だけでなく、加害者家族をも打ちのめす。現代のネットによる攻撃も凄惨なのだろうけれど、昭和の頃はより直接的で逃げ場がないものだったろう。それなのに残っている映像は、加害者本人も家族も『普通に』暮らしていた。今になって弟さんは、普通を装うことでしか家族を守れなかった、と仰っていた。

家族はそうだろう、と思う。では、本人は?
いや、罪を償っているのなら笑って生きても良いではないか。そうでなかったとしたら?
これは本当に難しい。唸り声が自然と出る。
被害者家族は、刑務所にも入らず、事件をネタに何冊も書籍を出して莫大なお金を得て暮らしている様を見て、強く抗議していたそうだけれど、それはもっともだと思った。

では、償うとは一体何か。
刑務所に入ることが償うことなのか、或いは社会的な制裁を受けることが償うことなのか。私は断定的な物言いで考えを言うことができない。
ネットには、多くの自称ご意見板やインフルエンサー、自警団のような人たちがいる。そのすべてを否定はしないし、間違っているとも言えない。
ただ、物事には立場によって見えるものが違うし、それぞれの正義がある。不正義であっても正しい時もある。

弟さんは言う。
『家族にとってあの事件を忘れることは出来なかった。けれど、家族だけで背負うにはあまりにも重かった』

この言葉で締めくくられたドキュメンタリー。
この言葉がすべてを物語っていると思った。

言葉も行動も一度外に出てしまえば、それは必ず何処かの何かに影響を及ぼすもの。
本当に良く見て、良く考えて発しようとしたのか、大いに考えなければならない。

たんなるにっき(その117)


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