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短編「その場の『全員』が笑えないなら冗談とは言えないらしい」

 目の前で青く光っている「入室」ボタンを押す前に深く呼吸をする。オンライン会議に参加する前はいつもこうだ。午前中に個人面談だとか、午後から定例会議だとかいう日は朝から気が重く、直前になると何となく動悸がして緊張で体が動かず、何度も鏡を見ては自分の顔に変なところがないか入念にチェックし、何度も深呼吸をしてからでないと入室できない。青いそのボタンを押し、すでに数人で話している輪の中に「こんにちはー。よろしくお願いしまーす」と笑顔を作ってマイクに吹き込む行為は、海の底で暗く大きく口を開けた洞窟に飛び込むような錯覚を覚えるほど苦しい。
「あっ、むっちゃん、よろしくお願いしまーす」
「やっほー」
「お願いしまーす」
 華やかで意地の悪い顔が三つ画面に映り、睦美はめまいがする。それでも、今日は挨拶を無視されなかったと、心のどこかでほっとしている自分がいて、今度はそれに腹が立つ。
「先週の定例会議はごめんねー。今週、忙しかったでしょ」
「でも、うちらまじで助かったー」
「ねー」
 先週、このチームの長である高瀬が言っていた仕事だ。今うちのチームが抱えている顧客のExcelデータを、会社で指定されたソフトを使ってまとめ直してほしいというものだ。「先月初めにメールが来てたみたいなんだけど見落としててさ。来週の定例までに四人で分担して仕上げといて」と、先週の定例会議で彼は悪びれもせずそう言った。しかも、それはすべて睦美がやることになるとわかっていながら、だ。
「全員揃ってるな、じゃあ始めようか」
 当然のように時間を過ぎて入室してきた高瀬はやはり、悪びれもせず言う。
「じゃあまずは、先週お願いしていた顧客データのまとめ直しだけど、どうなってる?」
「はい、それは今回、むっちゃんがやってくれるというので、全部お願いしましたー」
「それはみんな助かったなー。じゃあ、むっちゃん、どうなってる?」
「はい、今、顧客データの半数である三千件まで入力が終わっています」
 半笑いで「むっちゃん」と呼ぶ上司の方を見ないようにしながら答える。
「え、全部終わらせてないわけー?」
「ちょっとー高瀬さん困ってるじゃーん」
「終わってないのにそんな堂々と報告してさー」
 語尾を伸ばしてしゃべることしか能のない人たちに言われたくないが、そんなことは口が裂けても言えない。面倒なことがこれ以上増えるのは避けたい。
「まあまあ、一人で三千件はすごいよ」
 高瀬が間に割って入ると、キャハハと高い声を上げていた三人の顔がさらに歪む。
「や、でもあれだよ?期限は過ぎてるから。来週の定例までに終わってなかったらむっちゃんはボーナスなし確定だな」
 高瀬の言葉に三人が声を上げて笑う。
「高瀬さんひどーい」
「上げて落とすタイプー」
「あ、でもあれだよ?」
 一人が、先ほどの高瀬の声を真似て発言する。
「派遣さんだから。来週の定例までに終わってなくても、むっちゃんはボーナスなし確定だな」
 一段と大きな笑い声が画面から響き、睦美はそのまま意識を失った。

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