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44. あおい水の時間、ブルーモーメントに呼ばれて

蒸し暑い日中、今年はまだクーラーをつけずにいる。宵の時間がくると、やっと本来の自分になるようだ。日没の時刻、その少し前をみはからって散歩に出る。

きょうはリゾート地で買ったオリーブ色のビーチサンダルにした。脚をいれた時には、親指と人差し指の真ん中らへんが擦れて、鼻緒が少し痛かったが、履いていると慣れてきた。足裏の神経は、脳に直結しているというが、ぺたぺた歩いているうちに、その辺の草の茎や花の匂いが風に運ばれて、鼻孔に届く。 

眺めのいい場所をみつけて、月を仰いだ。魂の強さが抜け出たような、聡明な光。夏の月は、不思議なくらいひやっとする冷たい光である。

遠くが見晴らせる丘の上にのぼった。

眼を移せば、山と山の間から、宝塚や大阪平野の灯りがちかちか動いている。光に灯のなかに、ビルの頂上に付いた航空機に知らせるための赤い灯が混ざる。瞬いている。じっとしていないことが、さらに美しく魅せるのだろうなと、思った。

そして、ブルーモーメントがやってきた。

蒼い時刻だ。眼を凝らしていると、自分まで蒼く染まっていくのがわかる。光の渦に彩られた都市が、いつのまにか湖の中に沈んでいくようにみえる。水の都市になる

夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。


枕草子でも、都人は、夏の夜を讃えている。そういえば。わたしがかつて住んでいた温泉街の川のほとりでは、真っ暗のなかに蛍がふわりふわり飛ぶさまを、目にしたことがあった。父親が獲り、虫籠の中に移し、庭で光を囲みながら家族で瓜を食べた。

きらっと水粒の光るなか、蛍の灯りは、息しているみたいで、はかなく、か弱いからこそ美しいのだと思った。朝、飛び起きたらすぐに蛍を見に行ったが、たいてい動かなかった。死んでいる? 幼なごごろに、光はみるもので決して捕まえてはいけないのだとこの時に悟った。あれから、何年か。時は変わったが、それでも夏の宵はうつくしい。

散歩からかえっても、陰翳礼賛よろしく、リビングではランプだけ灯した。


薄暗い部屋で眼を凝らしていたら、ふと思いついたことがある。いつかの丑三つ時のことだ。

わたしは提出前にも関わらず、思った原稿があがらない場合、時々ふて腐れて、寝てしまうことがある。たいていはソファの上で、ごろんとなりそのまま寝る。そうして、2時半から3時半くらいの間に目を覚ます。

しまった! 机の電気はそのままだ。やり残した原稿が気になり、えいやっと起きる。寝落ちしてから、2時間半か3時間経ったころである。

机の前にしばらく座っていたら、しんとした室内に、誰かがいるような見守られている空気を感じ、そういう時、外はたいてい水っぽい墨色だ。

不思議なほどに原稿がたたたっと書けてしまう。寝るまでの、まんじりと書きあぐねていたあの、わからなさはどこにいったのだろうか。なんの迷いもなく、パソコンのデジタルの光のなかに言葉を連ねていく。かちっと、頭のネジが宇宙とつながった。そう信じられた。そんな時に書いた原稿は、たいていクライアントに驚きをもって迎えられて、新連載につながったり、数人で担当した本ならライターのリーダーにさせていただいたり……、普段は起こらないことがあり得た。

やがて青い時間が降りていた。山の稜線が黒い。折り紙のようにくっきりとした色。黒い山に、抱き取られていく感じがして怖くなるほど。

リビングから望む山は、あんなに高い山だったかしらと、改めて思う。
山がリビングを取り囲み、そこから手がぬーっと延びてくるみたい。自分のいるところまで侵入してくるような……魔の手。いや山からずーっと伸びてくるみたいな陰翳。なのに、心はほっと落ちつくのはどうしてだろうか。

ある日。友人と数人でお茶をしていて、「朝書くか、夜書くか」という話になり、この頃「朝書く人が多いらしいよ」という話になった。

その中に、ヒプノセラピーを仕事でやっている女性がいて、
「丑三つ時って、つながりやすい時間だから」と。

「つながりやすい? どことどこが?」

「あの時刻は遮るものが少ないから届きやすいのよ」と彼女は言った。
自分の潜在意識がコンタクトしてくれているということなのだろうか。

朝と夕の、ほんのひとときのブルーモーメント。

ブルーモーメントにある美しさは、一瞬という刹那とともに畏れみたいなものが溶けている。

ブルーモーメント(blue moment)とは、
夜明け前と夕暮れの後のわずかな隙に訪れる、まわり一面が青い光に照らされてみえる現象。好天で雲がほとんどない空気の澄んだ日ににしか現れないし、日没後の短い時間しか見ることができない。時間が経つにつれブルーモーメントの青色は暗くなり、夜の闇に変わる。北欧の白夜には数時間にわたって見ることができるという。

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