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「ギャップの遣い手」藤井風は”近所のお兄ちゃん”と”天才カリスマ”が共存する23才の生身の人間

間違いなく天才、だけど親近感


希有な才能と飾らない人柄を併せ持つ藤井風。以前のnote藤井風は一体何者なのか?」には「カリスマを超えた”藤井風という音楽”の教祖」と書いた。と同時に彼の魅力は「大衆性」でもある。

メディアに露出する男性ピアニスト、ピアノを奏でる男性ミュージシャンはそこそこいる。だが藤井風はピアノ男子にありがちなお坊ちゃま臭、つまりスノッブさを感じさせないのだ。




オトナ世代にも親しまれる昭和的雰囲気

そしてハッとするような美形でありながら、往年の昭和スターや太宰治などの文豪を思わせるような昭和顔である。ラジオ出演で受け答えする言葉や、楽曲の歌詞も庶民的。方言丸出しで、近所のおじいさんが茶飲み友達との会話で使いそうな古い言い回しも使う。

若者特有のオラオラ言葉でもなく、賢(さか)しい雰囲気も打ち出さない。あくまで親しみやすく、ふんわりとした「ご近所のお兄ちゃん」感覚で話しかける。

彼はファンの前に姿を現すときも、極めてラフな装いであることが多い。自宅を想定した配信ライブの際はファンの間では「緑ジャージ」と呼ばれる高校のジャージ姿で現れた。床にぺたんと座った状態でキーボードを弾いてライブを行ったのは、藤井風が初めてなのでは。


配信ライブでの庶民的な様子は、ファンとの間の心の敷居をグンと下げることになった。打ち出している雰囲気は、あくまで田舎から出てきた純朴な近所のお兄ちゃんであり、かわいい弟や甥っ子なのである。

ライブやMVで見せる七変化

それがライブ演奏やMVとなると打って変わって七変化する。無垢な仔犬のような顔つきから、一瞬で妖気さえ感じるような色気を放出。藤井風は一体いくつの顔を持つのだろう。

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中にはサイコパス的な狂気さえも感じさせる作品もある。(MV「優しさ」参照。)


場面ごとにころころと表情を変える様子は、まるで別人格が乗り移っているかのようだ。MVを監督した山田健人も彼は「憑依型」だと話している。


スイッチングの巧みさが目を引く

藤井風の「ハレ」と「ケ」のスイッチングの巧みさは常人のレベルを越えている。もちろん、それは子どもの頃からピアノでステージに立ち、場数を踏んできた経験でも養われたのだろう。


だが、それ以上に感じるのは彼のエンターティナーとしての心掛けの豊かさ。聴いてくれる人、見てくれる人に楽しんでもらいたいという工夫と気持ちが、手に取るように伝わってくる。

「Sunday Morning」では高音部を歌うところでびっくりチキンが登場。歌い終わると布団をかぶりイビキをかいて寝てしまう。楽しい演出はいつ見ても面白い。

演奏している間は全力でその曲を「生きる」。そのおもてなし精神とプロ根性は、天性のものだけではないだろう。その鮮やかな変貌ぶりは、俳優としても充分に通用するのではないかと感じるほどだ。

”ギャップ萌え”は全てのボーダーを越える?

男女を問わず「ボソボソ話す照れ屋さんでかわいい風くん」「年齢不詳で甘い毒のような色気を放つ風さん」のギャップに惹かれているファンも多い。これは、彼が出演したラジオ番組のDJを務めるオジサマ達が、軒並み骨抜きになっていることからも一目瞭然だろう。

藤井風ファンも進化し続ける

そして2020年も終わりを迎えようとしている今、わたしが注目しているのは彼の音楽に昼夜を忘れて熱狂している(自分も含む)ファンの動向と生きざまでもある。

ご真影(スクショなどの写真やポスター、レコードジャケットなど)を飾って愛でるのは信者(ファン)らの定番の行為。絵師たちはこぞって肖像画を描き(ファンアート)、楽士らは神楽(いわゆる楽曲カバーやコピー)を奏でる。
詩人と作家は“御言葉”をはじめ彼の音楽がいかに優れ、いかに徳を積んだ愛すべき人物かを賛美。それぞれに経典や詩を編さんしている。
私設広報部隊は出演する番組情報や掲載記事などを逐一チェック、こぞって宣伝、ネット上に拡散する。藤井風オフィスも驚き?のチームワークである。
ベジタリアンだという彼の食生活を真似して、自分の食生活を改善する者や、「解放と放棄」という彼の歌うテーマに従い人生を見つめ直す人たちもいるようだ。

オフィシャルグッズが販売されるとこぞって買い求め、お布施とお賽銭を奉納。中には彼が身につけている衣と同じ物を購入し、着用する者も少なからずいる。藤井風は経済も回すのだ。


カリスマを超えた”藤井風という音楽”の教祖

みんな藤井風という若き音楽のカリスマに“洗脳”されている。これは何かに似ていやしないか。さもありがたき天からのメッセンジャーのように彼をあがめ奉る行為は、やはりカリスマ教祖を崇拝する信者のようだ。

「あの若さで、なぜあそこまで悟っているのか」「どうすれば彼のように執着を手放せるのだろう」


そう考え続けてポジティヴに修行にまい進していた信者(ファン)にとって、“人間・藤井風”が武道館ライブ以降「へでもねーよ」「青春病」で見せ続けている“23歳の青年の顔”は救いであり、癒やしになったのではないだろうか。怒りの表現や屈託のない笑顔に「藤井風も生身の23才だったのだ」と。

わたしは「青春病」のMVで音楽漬けだった過去がフラッシュバックし、しばし言語化できないほどの衝撃を受けた(詳細は過去記事を参照願いたい)。少なくても自分にとっては、藤井風のいかにも23歳らしい姿を感じられたことは救いになったように思う。


藤井風以前、藤井風以降。 音楽史に刻まれる存在となるか


まだまだ先行きの見えないこのご時世に、一大ムーブメントを起こしつつある藤井風。きっとこの先ますますメジャーになり、世界に打って出ることは間違いない。「売れる」ことによって、彼を取り巻く環境も変化していくだろう。周りのサポートはもちろんのことだが、彼は聡明で自己肯定感が高いから、欲や権力に支配されることはないと信じたい。

今の23歳の若さゆえに書ける曲もあれば詞もある。だが、若く純粋であることもまた、永遠ではない。彼の進化と成熟していく姿を見届けたい。ただただ、彼の生み出す音楽に触れ続けていたい。そんな気持ちで、時にまだ幼い我が子を見るように彼を見守っているのは、わたしだけではないはずだ。


煩悩まみれのわたしには、放棄解放も見えてこない。23才の頃の自分は、まだ世間知らずで理想に燃えていたし、何も怖くなかった。だが、年齢を重ねるうちに、きっと多くのものを背負いすぎたのだろう。手放してしまうのが怖いと感じる時もある。でも藤井風の歌を聴いていると、そんな情けない自分さえも肯定されているような、穏やかな気持ちになれる。

こうなったら、藤井風の歌うように「内なる風に吹かれて」心ゆくまで彼の言う“ヴァイブス”に身を任せてみるのも悪くない。”風の時代”が到来らしいが、おそらく年をまたいでも、彼の音楽の魅力には囚われっぱなしだろう。迷ったり藻掻いたりしつつ、「もうええわ」って口ずさみながら。

藤井風さんのこと、いろいろ書いてます


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