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理解のある彼くんの正体。

自己紹介。

※自己紹介の前置きが長くなったが、大事な事なのでやはり書くべきだと思った。

私について自己紹介をすると、子供の頃から変わっていると言われ続けて、小学校の時からいじめにあい、中高で鬱になりながらもギリギリ高校を卒業。
大学に行くが、いじめの傷が治ってない時に、学部長に「いじめはいじめられる方も悪い」と言われ、不登校に。
心療内科では長く自律神経失調症として延々と睡眠薬だけ渡されてきた。
中退した後、実家で療養をしていたが、両親も発達障害なので、全く気持ちが休まらなくて、辛い日々が続いた。
或る日うさぎさんを飼い始めた。うさぎさんのお陰でゆっくりと心が癒されていった。
このままではダメだと近くの店の接客業をしたが、給料は雀の涙で、それに加えてお気に入りの子のシフトばかり増えていくのを見て、辞めることにした。
暫くして、家にいるのが最大のストレスであったから、近くの観光名所で住込みで老舗旅館の仲居をした。
しかし、余りに過酷な仕事であったから、契約満了で辞めた。

それから人生でずっと出来る仕事に就くべきだと思い、放射線技師になる学校に行くために一か月で入試の準備と勉強を一からやり直して、合格した。
ド田舎の山の頂上にある学校で、女子寮が併設されていて。
お金は勿論なかったので、その女子寮に入ることになる。
そこは窓に転落防止柵がしてある6畳くらいの個室があるが、コンクリート打ちっぱなし、家具も備え付けだが明らかに30年以上そのままだろう年季が入っていて、虫もよく湧いたし、寝ている時にムカデに噛まれたこともあった。
個室のドアはよく音を響かせるし、空調は個室にあるが、就寝時間になると真夏も真冬も止まる設定になっており、期末の度に暑さと寒さに晒された。
年に一度別の部屋に引っ越さねばならず、私物はどんどん減っていった。
外出をするにも毎回山を登らなければならず、自転車が無ければ駅に行くのさえ億劫になるほどの場所だった。
勿論キッチンは共用で、冷蔵庫に入れるには名前を書いた。火気厳禁なので調理は電子レンジかケトルだった。
その代わりに食堂で食べることが出来るが、メニューは決まっているし、何より誰かと顔を突合せなければ食べることすら出来なかった。
浴場も大浴場で時間が決まっていて、早めに入れればいいが、大抵はぎりぎりになる。そしてべちゃべちゃな脱衣所から、ぬるぬるで髪の毛が散乱した場所に行くことになる。結局大きい浴場に浸かった事は数える程しかない。
洗濯も洗濯場があり、何台かの洗濯機があったが、人数よりずっと少ない洗濯機はいつもいっぱいで、3日は貯めて洗濯して、寮の屋上で乾かした。
が、屋根がある場所はいつもいっぱいだったから、屋根のないところでいつも乾かしていた。その時に天気予報に詳しくなった。
最初に引っ越しした時は家族が引越し用具を持ってきてくれ、ついでに部屋を一瞥して、「ムショだね。それか精神病棟。」

21時門限の女子寮に24歳から三年間住んでいた。
勿論鬱病も酷くなった。でもそんな事を言っている場合ではなかった。
1限から5限まで毎日フルで入っているし、レポート課題も中間試験も期末試験も全部必修科目しかなかったから、休む時間なんてないのだった。
その間に放射線物理学も医学講義も機器学も実験も電気電子工学もしなければならないのだ。
余りのストレスに落ち着いて授業を聞くことさえ出来なくなって、教諭が言っている事も頭に入らなくなって、教科書と参考書を何度も学ぶことで補える科目は何とか出来たが、教諭の言葉を一語一句書き写す科目は全く理屈が分からなくて落としてしまった。
危機感を感じた。何度も死のうとしたが、気力がなかったから死んでなかった。
或る日偶然占いの趣味がつながった心療内科があった。
興味が出て、そこに行った。
症状を言った。検査をした。ADHDと鬱病の併発症状と判明した。
25歳の時だった。

それから二年ほどそこの心療内科にお世話になっていた。
しかし、学校が無くなる(四大になる)ため、あなたが落とした授業(一つの丸覚え科目)は来期開講されない(全てが必修科目のため卒業できない=国家資格に挑戦すら出来ない)ため、辞めてください。(つまり学校側の都合で強制退学)ということになった。

三年間投獄され、毎日泣きながら努力したのは無駄だったのだ。
一番仲の良かった同級生は一年目に辞めさせられた。
成績が少しでも不安なら退学させることで、合格率を上げるのがこの学校のやり方なのだ。
特に今回は学校が無くなるし、でもそれまでの合格率も上げなければならないから、現役で卒業したのは本当に一握りだったと思う。

私は何となくそう言われると思っていた。
でも言われるのは悲しくて悲しくて。部屋に戻って声を上げて泣きつぶした。
それから、その晩のうちに高卒採用してくれる仕事を探して履歴書を書いて送りまくった。

そして26歳の時に事務業で上京することになる。
その職場で二ヶ月だけ先輩の年端もいかない女に隣の席からパワハラをずっと受け続けて、深刻な逆流性食道炎になる。
しかし、得意な分野はPC操作であることは分かったから、それから色んなIT企業でVBAでプログラム開発を事務員の立場からバリバリ作るようになる。

しかし放射線技師に対する未練がないわけではなかった。
医療に携わりたいと思う気持ちはずっとあったが、資金面で断念していた。
しかし奨学金で検査技師になれるという学校を見つけ、検査技師を目指すかかなり迷うことになる。
とにかく編入学の要件について直談判をすると、社会学が4単位足りないので放送大学で取ってきてくださいと言われた。
そして放送大学に単位履修生として入学することになる。

そして放送大学に入って授業を聞くと余りの分かりやすさと、学術的に高度であることを知る。そして自分が一番ネックだった出席点がなく、授業は何度も聞き返せるし、ほとんどは教科書を読み込んでいれば中間も期末も合格出来た。
それから考えが変わった。
ちゃんと大学卒業を手にすべきだと。

学費は割と暇な機関にバリバリ仕事して給料から出した。
学部はプログラマーが自分に向いていると分かったので、情報学にした。
それから仕事をしながら放送大学に通い、たまにギリギリになりながらも卒業することが出来た。
これが今年の春の話である。

春にすぐ海外の企業で英語でバリバリ研修を受けてから暫くリモートで仕事をしていたが、祖父母の調子が本格的に悪くなったため、本当は本社(海外)に出勤予定だったが、断る事にした。
そして次の仕事はプログラム開発の部署に入ったが、面接では育てる方向と聞いていたのに、実際には即戦力としてのスキルを求められ、上司や一ヶ月先輩から毎日何をしていたのかや、そんな事が分からないのかとか、遂に、この仕事任せられませんね。と言われ、身体が出勤を拒否した。

今は別のところにいる。
今のところはそれ程ではないから、落ち着いて仕事がしたい。
今年で30になる。
やっと人間らしくなれただろうか。

理解ある彼の正体。

と、今はやっと普通になりつつある弱者女性だ。
世の中は「20代で結婚していないなど、何をしていたのか?」などとのたまうが、生きるために必死だったと返そう。
勿論好きな人はいたし、何度もアプローチしたり告白したり、デートをしたり、恋愛に対しても手を抜いたことはない。
それでも何度も振られて、その度に次に生かすためにと努力してきた。
美容も流行りも女性らしいそれも追いかけながら、自分のスキル向上の勉強もたゆまなくしてきた。

でも今は何だか情熱を傾けられない。
恋心がすっかり抜けたようだ。
今は自分の生活を満足する環境に変える事にハマっているし、とても有意義だ。
それなのに普通の人間よりずっと強い性欲が自分を何度も殴ってくるから、自傷したり、睡眠薬を多用して寝たり、自傷したりしてやり過ごしている。
中学生の鬱病になった時から、異常な程の性欲に対しては今でも本当に手をこまねいている。

不安が強い時が一番性欲が強いというのは自覚がある。
つまり、メンヘラ女性は性欲が強い故に不特定多数の男性との関係を持ち続けるのではないだろうか。
不安定で性欲が強い時は、特に男性と変わらないんじゃないかと思う。
自分は理性が強いので、同意のない性欲処理はしない、また不特定多数とは関係を作らないと理性が効いているからまだ人間だが。
メンヘラ女性は動物だと思っている。

メンヘラ女性の原因の一つに自身の発達障害がある可能性が高いのではないだろうかと予想している。
そもそも発達障害を持つ人は、幼い頃から叱られ続けたり、否定され続けたり、いじめの対象になりがちで、不安障害を併発しやすい。
定型発達でも不安障害や倫理観の崩壊はあるが、発達障害の不安障害は趣が異なる。
しかし上記の話になるとかなり長くなりそうなので、またの機会に書こうと思う。

発達障害者は不安障害を併発しやすい事、そしてもう一つ特徴がある。
異常な程の共感力だ。
これは幼少期からずっと親や他人の顔を伺って生きた者だけが持ち合わせている。
楽しいはずの交流も、何故か後に物凄い疲労を感じる。そういう例が幼い頃からある場合は共感性を異常に発達させることで自分の身を守ってきた経歴のある者だ。
これは発達障害者だけではなく、家族不全の子供にも多い。

この異常な共感力が理解ある彼の正体の一つと言えると思っている。
一見定型発達のように見える、健全な人間に見えるような人間を発達障害者の目線から見ると、全く共感力の無い、身勝手な生き物にしか見えない。
自分に害を齎すものにしか見えず、近づけられるものではない。
しかしそれをすり抜けられる人間というのは、また相手も特殊な環境によって定型で健全でとはいかなかった人間であるのではないだろうか。

もしくは、その能力が一時的に発現した人間である。

そう思えば、私が好きだと確信する人は基本的に普通ではなかった。
普通ではないから共感力が互いに高いから、居心地が良かったのだ。
そう思えば、私が普通の人間を普通に好きになれない理由がそこにあるだろう。


”あとどれくらいで朝が来るのか
 悲しみと同じ歩幅で歩いた
 夢を見ていた"



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