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aftersun について

6月24日。aftersun を鑑賞。とても好きな映画だったので感想を残したい。尚、filmarks でも既に感想を書いてしまったので、内容は被ると思う。

映像が美しくて、儚くて、とても辛かった。すごく好きな映画だった。映画館でぼろぼろに泣いた。

20年前に行ったカラム(父)とソフィ(娘)のトルコ旅行の記憶をソフィが父親と同じくらいの年齢になって辿る物語だ。書いてしまえばそれだけで大きな事件が起きることはない。会話量も多いわけではないのに映像は切実だ。鑑賞者の前で流れる彼らの映像は、美しく、緩慢だ。少しばかり退屈でさえもある。だが、ふとした瞬間にこの時間が永遠に続くものではないことに気づかされる。すると、途端にゆっくりと流れていた親子の時間が、もう取り戻せないもので、ありがちで何度も繰り返されるような彼らの時間はとても短いものなのだという現実をつきつけられる。

鑑賞者であるわたしは、ソフィの記憶を有していないはずだ。それなのにどこか懐かしさを覚えるのはなぜだろう。彼女たち親子の過去も、見ていたものも、映画を観ているわたしは初めて目にしたはずだ。しかし、プールの水のきらめきだったり、澄んだ空だったり、ゲームセンターで一時だけ仲良くなる友達だったり、年上の子たちと年少の自分に突如として表れる隔たりだったりをわたしも知っている。ソフィの経験とはもちろん異なるが、わたしも人生のなかで似たような場面に遭遇したことがある。ソフィの記憶がぐっとわたしを引き込む。

なかでも、パラグライダーが浮かぶ空の場面は鮮烈だった。空を二人で見上げながら、ソフィはカラムにパラグライダーに乗ろうと誘う。カラムは「年齢制限があるだろう」と言ってその誘いには乗らない。そして、また二人は空を見上げ続ける。空に色とりどりのパラグライダーが浮かぶ様子が映し出され、わたしは二人と同じ景色を見る。

澄んだ空を眺めていると、幸福さと空虚さに襲われる。このありふれた景色はわたしの頭をぼーっとさせ、感覚を麻痺させ、現実から遠のける。それは心地良い感覚でもあるし、この空虚さが、退屈さがわたしに「なにかをしないといけない」という不安と焦りを感じさせもする。この心の振れ幅は年々大きくなっていき、身体はどんどん重くなっていくように感じるのはわたしだけだろうか。

同じ空を見ていても、ソフィの視点はパラグライダーにあり、カラムは空全体を見ていたように感じた。というのもソフィはパラグライダーに乗りたがるが、彼が彼女の要望をあしらう様子が、このまま空をぼーっと眺めていたい(あるいは、身体が重く、動かない)意思のように見えたのだ。二人はこの退屈な幸福を共有するが、身体が軽やかなソフィは緩慢な時間から逃れるためにパラグライダーに乗ることを提案する。だが、身体が軽やかなうちは社会に足を絡めとられ、身動きができない。結局、彼らは二人ともその場から動けない。

わたしが見た彼らの心情を勝手に書いてきたが、それ自体はあくまで推察に過ぎない。カラムの希死念慮はうっすらと感じとることができる。それは、大人になったソフィが記憶の再構築をしている際にも気づいただろう。彼女は父と同年代になり、漠然とした不安や焦燥感を抱えているのかもしれない。ただただ楽しかったホームビデオとして再生されなかったのは、彼女自身が抱えている不安を通して彼の表情を読みとろうとしたからだと思う。だが、彼女にもわたしにもカラムが何を考えていたのかは最後までわからない。わたしはさらにソフィが今何を考えているのかもわからない。ソフィが大人になるまでの時間だってわからない。でも考えずにはいられない。

彼女がビデオを再生している部屋に敷いてある赤い絨毯が目を引く。この絨毯がたくさんの疑問を呼び起こす。なぜ彼女の部屋にある? 彼女はなぜ無気力な目でビデオを見つめるのか? そこにカラムは居ないのか? 彼女たちは幸せなのか(だったのか)?


赤い絨毯を眺めるカラム

赤い絨毯は旅行のあいだにカラムが購入したものだ。彼は金銭的に余裕があるわけではない。部屋は小さめだし、オールインクルーシブで泊まっていない。「歌を習わせてやろうか?」というカラムの軽口に「そんなお金ないでしょ」とソフィは返す。

そんな金銭状況にも拘らず、二人は絨毯店に行く。カラムは店主が「絨毯にはひとつひとつ物語がある」と言っていたとソフィに話しながらうっとりとある絨毯を眺めるが、ソフィは大人の買い物に飽きた顔をしながら見つめる。その際は購入しなかったものの、カラムは一人で再度店に訪問し、赤色の絨毯を購入する。たしか850ポンドとかだったと思う。決して安い買い物ではない。

カラムが絨毯を購入した感情を想像することしかできないが、彼が言っていた「故郷を離れるとそこはもう居場所じゃなくなる」という言葉がひっかかる。

彼は、ソフィとソフィの母と別れて暮らし、その後の恋愛もうまくいかなかったようだ。カラムの両親は彼に愛情を注いでいなかったことも言及している。仕事も順調ではない。故郷を離れたカラムは居場所を失ってしまったし、居場所を作ることにも失敗している。ソフィと一緒に居る時は「父親」として彼女と接するが、それも旅行のあいだの仮初みたいなものだ。他者からソフィを「(あなたの)妹」と呼ばれる場面は、彼が若く、父親らしからぬ佇まいであることを言い当てられているようだった。(ソフィは自分が大人っぽく見えることが嬉しそうに笑う)

カラムにとってソフィとの休暇、2人の過ごす部屋は束の間の居場所みたいなものだ。不安定で、小さくて、短期的な居場所。

だが仮住まいの部屋に彼の買った赤い絨毯が敷かれると、部屋全体の雰囲気がパシッと決まり、途端に居心地良い空間に変わるように感じた。ソフィが「(自分の部屋の)壁を黄色く塗りたい」と話していたが、自分の居場所は自分で彩りを加えた場所なのだ。絨毯を敷くことで彼は自分の足場を作る。

絨毯の上では人々が生活し、様々な物語が生まれる。20年経った時にカラムの買った赤い絨毯はソフィとそのパートナー、赤ん坊の家に敷かれている。そして、ソフィは絨毯の上でビデオを流しながら、父との思い出を再構築していく。絨毯の上でソフィと父親の記憶、ソフィと今の家族との記憶が織りなされる。絨毯の上で生活し、物語を構成する。それは、カラム自身が成し遂げたかったことなのかもしれない。彼は精一杯の愛情をソフィに与えようとしていた。絨毯の上で温かい家庭を築き、親になったソフィと昔の思い出を語らい合うような幸福な日々を望んでいたのかもしれない。それは、彼自身のために必要だったのだと思う。絨毯を譲り受けたソフィは温かい家庭を築き、幸福な日々を送れているのだろうか。

カラムがソフィに日焼け止めを塗ってあげたり、ベッドが一つしかないからと彼女を寝かせてあげたり、真剣に護身術を教えたりする手つきに彼の愛情を感じる。彼が娘を大切に愛そうとする真摯さが伝わってきた。ソフィは彼の愛情を受け、純粋で素直な少女に育ち、彼へお返しように愛情を表現する。だが、彼女の無垢な愛情はカラムにとっては時に眩し過ぎる。ソフィはおそらく、カラムと自分の精神的な年齢の差があるとは思っていないだろう。しかし、カラムはその差を意識しながら彼女に接している。大人になることを羨望するソフィと老いることに不安を感じるカラム。

ソフィとカラムを撮ったポラロイドが変色していき、じわじわと2人の姿が浮かび上がる場面が示しているように、時間は不可逆なものだ。旅が終わるとソフィは母親の元へ帰っていく。ソフィと離れたカラムは途端に父親ではなく一人の男性になる。彼はどこへ帰るのだろうか。

ソフィがカラムと同じくらいの年齢になり、子供の時に見えなかった彼の心情を覗こうとする。だが、ソフィが記憶の再構築をしたところで、その手触りが復元されることがないのが切ない。

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