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何をもって我々はそれを「表現」と呼ぶのか〜anagonの日記 3/28〜

はじめに

僕がしっかりお出かけする日に限って、かなりの確率で雨です。
母も雨女で、おそらくそのDNAを継いだのでしょう。

NPOのメンバーからは、次本番雨降らしたら解雇と常に脅されています。


①今日あったこと

・ゆーみんの劇観た
・ミュージカル座「ひめゆり」観劇した
・本読んだ
・音楽理論勉強した

今日は観劇日でした。
ミュージカル作るNPOやってるんですけど、ちゃんとミュージカルとか劇とかあんまり観てなくて。(映画とか本とかばっかり)

なので、毎回見るたびに新鮮な学びがあって、すごく良いです。


②何をもって我々はそれを「表現」と呼ぶのかって話

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音楽は「奏でる」、絵は「描く」、ダンスは「踊る」、写真は「写す」、演劇は「演じる」、文章は「書く」。

それぞれ違うもので、その表現方法に対応する言葉が違うにもかかわらず、これらをする人を僕たちは「表現者」と呼びます。

そして、表現方法や、使うツール、用いる感覚(聴覚・視覚とか)、それぞれ全く違うのにもかかわらず、これらを一つの「表現」というフレームに入れることに違和感を覚える人はあんまりいないのではないかと思います。

僕はミュージシャンだけど、絵もダンスも写真も文章も好きだし似たような感覚でやります。演劇はそもそもやったことないけど。

ということは、必ずこれらには共通の要素があるはずで、これらを「表現」たらしめるものがあるはず

そしてそれは、これら「表現」とそうでないもののを分けるものでもあるはず。
twitterの適当な呟きと、「表現」としての文章の違いとなる何か。
適当な鼻歌と、「表現」としての音楽の違いとなる何か。
落書きと、「表現」としての絵画の違いとなる何か・・・。


それが一体なんなのかというのを、僕なりに1時間半電車に揺られて考えた結果、

「宿す」という作業

ではないかと思いました。


自分の中に、何かを宿した上で、それを表に現す。
さらにその表に現すことで、相手に何かを宿すという、
この流れが成立する営みを僕らは「表現」と呼ぶのではないか。
そう考えました。

宿す「何か」は、感情でも、他者でも、内なる自分でも、目に見えない気のようなもの、とにかく自分が認知している世界にあるエレメントであれば良くて、

ただそれらを宿すには、それらを知り、理解し、認め、赦し、愛することが必要であると思います。
また、より深く「知り、理解し、認め、許し、愛する」ために、僕らは学び、経験し、自己と対話し、思考するのではないかと思います。


少しずれましたが、何かを深く愛することで、自分の中に、または作品の中にきちんとその宿したい何かを宿すことができる

さらに「何かを宿した表現」は届く先があって初めて「表現」と呼ぶことができて、
その表現を見る・聴く人の中に感情や思考など「何か」(最初に宿したものとは変容することもあるだろうけれど)を宿すことが達成されて、「表現」は「表現」足りうるのではないかと思います。


この「作品に宿し、表し、人に宿す」という作業が、僕らが「表現」「芸術」と呼ぶものにはちゃんとある。

逆に、適当に書いたつぶやきが「表現」足りえないのは、何も宿さず、または宿したとしてもそれを十分に吟味しておらず、そしてそれを見た人に何かを宿そうというプロセスを前提においていないから。


と、まあ難しく書いてしまったけれど、僕なりに「表現」というものを考えたのはこんな感じです。

一体僕は、何を宿して、何を聴く人に宿したいんだろうなあというのを、少し考えながらこれから楽曲を作って行けたらなと思います。



終わりに

最近キリンから出たスプリングバレーっていう赤い缶のビールがとても美味しくて、プレモルから浮気しかけてます。


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