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1枚重ねることで。


この時間の渋谷には、すごい人だかりができているのだろうか。


ここ数日、SNSやnoteで日本のハロウィンに関するいろんな考察を目にしている。

もともと文化として持ち合わせていない「ハロウィン」をこの国で盛り上げたのは、一体誰なのだろう。ふと、そんな疑問があたまをよぎる。


真っ向から否定するわけではないけれど、いつだったか「ハロウィンがバレンタインを超える経済効果に!」というニュースを見て目眩がした。ブームなんだと煽るひともいれば、その波に何事もなくのっかるひともいる。消費は生まれるのかもしれないけれど、正直そこに生産性は感じられない。

そもそもハロウィンは子どものためのお祭りで、大人がハメを外すための日ではないはずなのに、どうしてここまで大人が盛り上がれるのか、そのエネルギーは普段どこに眠っているのか、なんだかすこし複雑な気持ちになる。


わたしはそこに、祭りを好む日本人のこころや、普段の自分を解放したい現代人の闇(?)みたいなものを感じているのだけれど、どうなんだろう。

日本の「ハロウィン」は彼らがつくるあたらしい祭なのかもしれないけれど、あそこに集まる若者たちのエネルギーをもっとべつのことに使えたらいいなと思う。

それをすることで何か社会的なメッセージを発するものに変換したり、なくなりつつある故郷のお祭りに参加したり、いくらでもエネルギーの使いどころはあるんじゃないかと思っていて。


「いやいや、日常から離れてただ騒ぎたいだけなんです」と言われてしまえばそこまでなのだけど、そんな人たちがあれだけの人数集まるのだとしたら、ちょっとこわいかな。こわいというか、もったいないと思ってしまう。

ただ、それもひとつの東京カルチャーだと理解してしまえばそれだけのことなので、最終的には無関心にたどり着くのだけれど。


わたしも、大学生の頃は少し仮装をして、下宿をしている友人やサークルの先輩宅にかぼちゃのおやつを配り歩いた記憶がある。

自分もハロウィンをたのしんでいた身なので、一概にどうとは言えないのですが、恥の文化がある日本の「ハロウィン」は、1枚衣をまとうことで普段の自分を解放する機能を持ち合わせているように思えてくる。


仮装するのはたしかに、なにかのショーに出ている気分になれてたのしいのですが、やっぱりもっと別の方法があるのではないかな。

明日はみんな、何事もなかったように仕事や学校に行くのだろうか。11月1日の朝に渋谷に行けば、ほんもののゾンビに出会えるかもしれないね。


#ハロウィン #地域文化 #考察 #メモ #雑記 #東京

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