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2018年10月の記事一覧

1枚重ねることで。

この時間の渋谷には、すごい人だかりができているのだろうか。 ここ数日、SNSやnoteで日本のハロウィンに関するいろんな考察を目にしている。 もともと文化として持ち合わせていない「ハロウィン」をこの国で盛り上げたのは、一体誰なのだろう。ふと、そんな疑問があたまをよぎる。 真っ向から否定するわけではないけれど、いつだったか「ハロウィンがバレンタインを超える経済効果に!」というニュースを見て目眩がした。ブームなんだと煽るひともいれば、その波に何事もなくのっかるひともいる。消

暮らしのエトセトラ。

いろんなものを乗り越えて「衣・食・住」がそれなりに満たされている、いまの時代。 戦後の日本を知る方々はから「モノがなかった時代」のお話をたくさん聞くのだけれど、わたしが祖母の年齢になる頃には「モノがあふれた時代」を昔話のように語るのだろうか。 生まれた頃から大体のものは揃っていて、小学校の授業でPCの使い方を勉強して、習い事に打ち込むことができて。大人になったらこうやって、コタツに入りながら自分のPCを広げて文章を書いている。 わたし達の暮らしぶりは、ずいぶん変化したん

ここはまだ旅の途中だよ。

晴れわたった 空の向こうのすき間から どこかに行ってしまいそうな心 くるり/旅の途中 飛行機を見るたびにこのフレーズを口ずさみたくなる気持ちになるのだけれど、いまは地元でやりたいことがあるから。 ::::::::::::::::::::::: 簡単なようで「選ぶ」って案外むずかしい。 先日、高校からの友人たちと飲んでいたのだけれど、仕事も恋愛もそれをひっくるめた人生みたいなものも、ほんとうにそれぞれで。 「スタートライン」と言うと大げさかもしれないけれど、高校生の頃

わたしが好きなもの。

自分が好きなものについては、案外わかっていないことのほうが多い。 高校3年生までは「バスケ」が好きだと即答していたと思う。 小学2年生からずっと打ち込んでいたから、それ以外のものを「好き」になる時間はほとんどなかった。ほんとうに、寝ても覚めてもバスケットの日々。なかでも、高校3年間はとくにバスケ漬けだったしね。 朝6時に家を出て、最寄り駅までの車のなかで母が握ってくれたおにぎりを食べる。7時に体育館に着き、眠い目を擦りながらバッシュを履き、シューティングをはじめる。授業

26年目の記録。

いろんなシーンを撮り溜めていこうと「 #写ルンです 」を持ち歩いている。 25年間生きてきた場所を一度、わたしなりの解釈で分解してみようと思っていて。一眼レフだと被写体もわたしも構えてしまうから、みんなに馴染みのある「写ルンです」くらいがちょうど良い。 現像するまで、なにが撮れているかわからないというのもちょうど良い。 「案外上手に撮れたかも・・!」と思えるカットもあれば、「失敗したなぁ」と思うカットもある。思っているよりもずっと暗いところに弱いということも、6個目にし

1年前のいま頃と。

気がつけば10月がおわりに近づき、あと2ヶ月ほどで2019年になる。 1年というものは、長いようで案外短い。そのわりに「どんな1年だったのだろう」なんて考えてみても、あんまり上手に思い出せないから困る。 インパクトのある大きな変化はなかったのかもしれないけれど、自分のなかになにかちゃんと積み上がっているものがあるのだとしたら、それは結構うれしいことだと思う。 逆に言えば、なにも積み上がっていない可能性もあるんですけどね。それはそれで、結構怖いことだなぁ。 Google

もっと軽やかに。

「がんばってるね」と言われているうちはまだまだなんだと思う。 もちろん、激励のことばではあるのだけれど、それを言われるたびに「悔しさ」とか「もどかしさ」みたいな感情が生まれてきて。 みなさんが思ってくれているほど(?)わたしはがんばれていない気がするし、なにをどれだけやったとしても、いまは「がんばってるね」止まりなんだなぁという “できない自分” に対する悔しさみたいなものを感じてしまう。 わたしは昔から、へんなところに競争心をもつ癖がある。簡単にいえば「負けずぎらい」

「おこぼれ」みたいな存在。

わたしがやっている「仕事」というものは、ひとが生きていくうえで “なくてはならない” という分野ではない。 話というのも、焼豚のはじっこみたいなことが大事。 パンの耳、焼豚のはじっこ、人の愛嬌、話の寄り道。 そういえば…っていうのは、とてもいいものなんです。 10月24日の「今日のダーリン」より いま、わたしの仕事がなくなったとしても、たぶん誰も困らない。 決して無責任なわけでも、悲観しているわけでもなくて、ライフラインに関わる仕事でない限り、おおよその生活が成り立つよ

「   」でつながる場。

イベントやワークショップに限らず、「場のつくりかた」は間接的に全ての仕事に関わってくるものだと思う。 ラジオでもテレビでも、会議室でも教室でも、絵画でも映画でも、そこに関わる「ひと」が2人以上いる限り、なにかしらの「場」ができていることになる。(とわたしは思う。) 無理に「場」を動かそうとすると窮屈さを感じてしまう一方で、動きがない「場」に無心で居続けるのも案外むずかしい。 もしかしたら、そんな時にも「ファシリテーション」や「インタビュー」の力は活きてくるのではないだろ

彷徨えるひとの道しるべ。

方向音痴への道【総括】 (その1)目的地さえなければ方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い。 『どこでもない場所』/浅生鴨 大学を卒業して3年。地域に関わる様々な仕事をしながらずっと「着地点を見つけなきゃ」と思っていたのだけれど、『どこでもない場所』を読んでいると「着地するのはもう少し先にしよう」と思えてきた。 天でも地でもない、右でも左でもない、そんなところを “ふわふわ” でもなく、かといって “どんより” でもなく漂うような鴨さんの文章が心地よくて、夜眠る前にベッ

毎日恥を書きながら。

20代はそうやって過ごすと決めたから。 自分の書く文章がだれかのためになったら嬉しいけど、いまはまだそれだけの思考も経験も足りていない。 それでもこうやって、毎日なにかを書いているわけでして。 だれかに必要とされているかはわからないけれど、だれにも迷惑はかけていない。 むしろ、わたし自身はあたまを整理していくことができるので、わたしが+1になれば十分なのかもしれない。 もちろん、書いているのはこちらのnoteだけではないのだけれど、こんな風に呼吸をしながら書けるとこ

届くまでの時間。

なにかを待っている時間は、わりと好きなんだと思う。 たとえば、注文したコーヒーを待っている時間とか、 土鍋でごはんを炊いている時間とか、 パンを買ってから次の朝までの時間とか。 もちろん食べることだけではなくて、オーダーした洋服を手に取るまでの時間とか、Amazonで買ったものが届くまでの時間とか。 満開の桜を待つ時間とか、夏に食べるスイカとか、お寺と紅葉とか、コタツで食べるアイスとか、どの季節にもいろんなたのしみが待っている。 なかなかうまくはいかないけれど、自分の

自分でつくれる、ささやかなたのしみ。

「たのしみ」っていうのは案外、自分の手のなかにある。 馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。 山梨のおじいちゃん(91)の口ぐせ(ことわざ) これってなにかを「たのしむ」にもつながることだと思っていて。 “たのしもう” という思考ひとつで大抵のことはなんだってたのしくなる。どうしてもやりたくないことを無理やりたのしもうというのはむずかしい話だけれど、はじめはちょっといやいやでも 気づかない間に夢中になっているのが理想かなぁ。 おじいちゃんの口

そこから、どんな風景が見えるのか。

気がつけば、窓ごしの風景をあつめてる。 宿泊した部屋、移動中の電車やバス、飛行機、大きな窓のある美術館、縁側のある古民家、自宅。 眺めることが好きなんだろうなと思う。 好きというよりも、そういう風にしてものごととの距離を保ってきたところがあるのかもしれない。 なんとなく輪のなかにいたけれど 昔からなにかの中心にいるようなタイプではなかったし、ともだち付き合いもそんなに上手じゃなかったと思う。ともだちと呼べる子はいたのだけれど、小中学校のときに本音で話せることってそんな