そこから、どんな風景が見えるのか。
気がつけば、窓ごしの風景をあつめてる。
宿泊した部屋、移動中の電車やバス、飛行機、大きな窓のある美術館、縁側のある古民家、自宅。
眺めることが好きなんだろうなと思う。
好きというよりも、そういう風にしてものごととの距離を保ってきたところがあるのかもしれない。
なんとなく輪のなかにいたけれど 昔からなにかの中心にいるようなタイプではなかったし、ともだち付き合いもそんなに上手じゃなかったと思う。ともだちと呼べる子はいたのだけれど、小中学校のときに本音で話せることってそんなに多くはなかったんじゃないかなぁ。
イギリスの天気のようにコロコロと内情が変わる、女子ならではのグループみたいなものもニガテで、こころのなかでずっと距離を置いていた。
ずっと競争の激しいスポーツはしていたものの、出し切らないといけないところで変な遠慮をしてしまう。それが裏目に出てしまい、自分をアピールすることがとにかく下手くそだった。最後のひとりになっても、黙々とシャトルランを走りつづけることは得意だったんだけどね。
そんなこんなで、よくもわるくも一歩引いてものごとを見るクセがついていて。本当は熱いものをもっているくせに、感情の吐き出し方がへたくそ。自意識過剰なところもあったとは思うけど、“どう見られるか” に敏感だったあの頃があったからこそ いまがあるって思えるようになりたくて。
そんな自分を認めてあげられるのは、やっぱり自分しかいないから。
自分とものごとの間になにかを挟むことで距離感を測りながら、決して自惚れることなく、時にはゆっくり孤独と向き合ってここまできたんだと思う。
なんだか話が大きく脱線してしまったような気がするけれど、このまま戻さずにいこう。
「どこから・どんな風景を見ていたいのか」そんな問いを自分自身に投げかけつづけることで、自ずと進む方向が見えてくる。まだまだ大まかな方角しかわからないけれど、いつか進みたい道が見えるものなのかな。
あたまのなかにある風景にたどり着くためにいま、自分に足りていないところは明確になってきているので、あとはどうやって補っていくのか。
窓ごしに夕日を眺めながら、昨日はそんな思考を張り巡らせていました。
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