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欲しいものが手に入った途端、どうしようもなく苦しくなった。

人は欲深い生き物だ。あれが欲しい、こうなったらいいな、と欲が止まらない。物欲は全然ない私だけど、何かを望み、求めることは、きっと止められない。こないだも、帰り道に「コンビニまで行くのちょっと遠いなあ」と呟いたら、愛梨さんが呆れていた。たしかに。つい2年前まで、毎日往復5時間の通学をしてたのに、新宿のど真ん中に住んでいて、まだ利便性を望むなんて、愚かで強欲だね、と2人で笑って帰った。

だけど、自分が望んだものが全部、いや、望む以上のものが、一瞬で手に入ったら人はどうなるんだろう。私はたった1週間で全て手に入るという経験をした。

1ヶ月前、新しいお家に住み始めた。新宿ど真ん中の庭付き1軒家。何もない空っぽの家でゼロから家具を入れ、怒濤のスピードで暮らしを整え、住み始めて1週間後には1日に20人もの人が出入りして、みんなで乾杯していた。名前は、願いを込めすぎないように、と、「れもんハウス」になった。

SUUMOに載っていた物件写真。
「れもんハウス」の名前が決定した瞬間。毎晩、夜な夜な対話して、深夜。
DIYしたり、お喋りしたり。空間と場を同時並行でつくっていく。

大人も子どももごちゃ混ぜ。初めましても、長い付き合いも、この場にくればみんな同じ。普段纏う鎧を脱ぎ、ただありのままで、そこにいる。共にいて、あなたである。そんな光景。ずっと見たかった景色。

私は、小さい頃から、お誕生日会やクリスマス、年末年始など、みんなで食卓を囲むのが大好きだった。プレゼントとかお年玉とか、イベントの中身は何でもよくて、普段忙しいみんなが一堂に集い、今ここを共に感じられるのがただ嬉しかった。1日を終える頃、温かいご飯を頬張りながら、今日という日について、とりとめもなく話す瞬間に幸せを感じる。実家での生活も、フランスでのホームステイでも、そんな温かな愛溢れる時間が今も記憶に刻まれている。

この家に来てから、そんな光景で、毎瞬毎瞬が埋め尽くされていた。見たかった。作りたかった。それなのに私は、求めていたものに完全に飲み込まれ、自分を喪失していた。疲れていたけど、それすら気付かなかった。だって、みんな大好きで、自分が望んだことだもん。それが苦しいなんて、そんなはずはない。だけど、私はぐちゃぐちゃになった。

誰もいない朝と深夜で、黙々作業。

タスクが終わらない、時間を作れない、その場にいる全員と向き合いきれない。主体性を持たなきゃ、みんなのこと気にかけなきゃ、自分を整えなきゃ、崩れちゃダメ…。ほら、また人を分析して、それが自分に跳ね返って、自分が一番フラットじゃなくて、健全じゃない。いや、そもそも人は誰でも弱さも強さもあって波があるんだって頭では分かっているのに、自分で自分を受け入れられない。そして、こんなにも自分で手一杯なのに、人がいるとそこにいるみんなの表情が脳裏に焼き付いちゃって、離れない。

今こうして書き出してみると、一つひとつは大したことじゃない。急激な環境の変化と、睡眠不足と、単なるキャパオーバー。そして、そんな状態の自分を棚に上げ、毎日人と会い、対話し続けることへの自己嫌悪。「できない」と「ダメだ、やらなきゃ」で窒息しそうになってた。だけど、苦しいときに自分が苦しいってまだ気付けない。そんな私の不調に私よりも先に気付いて、手を差し伸べてくれたのは、やっぱり周りの人たちだった。愛とリスペクトに溢れる人たちの存在に救われ、まずは言われたことだけを言われたように行った。

ブレイクスルーという言葉があるけれど、今はまさにそんな感じ。一度落ちて、壊れて、浮上した。これで完全にクリアではなく波と繰り返しではあるのだけれど、とりあえず今は不安が吹き飛び、全然へっちゃら。せっかくだから、何が起きたのかもう少し分解して、残しておこう。

私は自分が思っている以上に理想を追い求めることをやめられない人間だった。欲も執着も人より少ないほうだと思っていたけど、今よりもっともっとその先を求めていた。目をつむるだけで、ありありと浮かぶほどの強烈な情景に向かって日々を更新している感覚。そこには比較対象も誰かの存在もなく、ただ自分自身のなかで思い描くものへ近づきたいと胸の奥底でふつふつしている。その欲は成長だったり、自己実現だったり様々だけど、ありたい姿がどこか明確にあって、そこにギャップを感じると凹む。

思い返せばいつもそうだった。あまりに鮮明に映像として未来が浮かんでしまうから、願いや理想というよりもそれはもう未来予知として、思った通り、それ以上の現実を迎えていた感じ。ご縁や運やタイミングそれら全部が味方だった。恵まれていることへの感謝は人並みにはあったけど、そこに自分の意思や願いがあったことには無自覚だった。だけど実は、欲とも言えるような熱いものが自分の中にはあって、それに突き動かされてきたし、そこに自分も飛び込んで行っていたんだった。

このれもんハウスの日常は自分の見たかった景色。だけど、これは自分で手に入れたものになっていなかった。運命的な偶然が重なり、急ピッチで、転がるように始まった感じ。自分のなかに意思が芽生えてなくて、飲み込まれていっているだけだった。全部突然舞い降りてきたから、次に辿り着きたい光景もなにも浮かばない。

今まではそれでよかったんだと思う。急に飛び込んできた理想は、刺激として自分のなかに取り込み、そこに自らを入り込ませることができた。だけど、今は解釈や意思をもって自分のストーリーとして組み込めないと、刺激に満足できないようになってしまった。

人に合わせること、誰かの後ろを歩くことは得意だし、気付くと自然にやっている。でも、対峙する事象に近づきすぎて自分が内包されると、自分を見失い苦しなる。これは人との関係性も同じ。相手と自分は違う存在だと分離したうえで、もう一度向き合い、自分なりの解釈や想像、意思を巡らせる。そうして初めて他者と手を結んでつながることができる。フォロワー気質のくせに、自己が確立していないと安定を保てないなんて、自分でも面倒くさいなとつくづく思う。だけど、もう仕方がない。私には自分で立ちたいという思いがあるし、自分で生み出したいものも、きっとたくさんある。

今回はそんな自分に気付けた。今起きていること、自分の心の琴線に触れることを毎日ストックしていくことで、日常を冷静に見つめ、紐解き、自分とのつながりを取り戻すことができた。自分の現在位置を把握することができれば、自ずと未来は見えてくる。やりたいことも、見たい景色も、まだまだたくさんあった。こうやって思えることも周りにいてくれる人たちのおかげ。私のことを理解してくれている人がこんなにもたくさん。

自分よりもずっと先を歩み、そこでドシンと構えつつ、隣に舞い降りて同じ目線で話してくれる人たち。どんなときも「だいじょうぶ。なんにも心配ないよ。」と言ってくれる。なにかあったときに頼れる存在は必要だけど、こちらが頼るより前に気付いて動いてくれる。もちろんそこには、見返りも、エゴも何もない。ほんとに、すごい人たちだ。

私もそんなふうに、なんておこがましいけど、やっぱりそう在りたいし、それで大丈夫な世界を創りたい。だって、願うことはやめられない。


2021.12.13.

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一般社団法人青草の原・れもんハウス:

れもんハウス×We are Buddiesのnote記事はこちら:
https://note.com/wearebuddies/n/nfe53dfebeeaa

住民 藤田琴子(一般社団法人 青草の原 代表)目線で語られたれもんハウスはこちら:
https://note.com/tokoto/n/naaa87d0257c2

大家さん(千年建設・NPO法人LivEQuality)目線で語られたれもんハウスはこちら:
https://livequality.co.jp/owner/lemonhouse

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