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勉強は役に立つ? 運動神経が悪いということ Vol.39

「ぜんぜん勉強しよらへんねん、うちの子」入試の季節になると、受験生のお子さんを持つ同僚から嘆き節を聞くことがある。口下手ゆえ誤解を招きそうで発言は控えてきたが、内心、「大丈夫でしょ、勉強なんかせんでも」と思わないでもない。高校と大学、生涯で2度の受験を経験した。浪人時代をダブルカウントすれば3度だが、こなしてきた中途半端な勉強が、社会人になり、仕事のうえで何かの役に立った手応えはまるで無い。部活や友達付き合い、バイトに恋愛。勉強くらい少々苦手でも、幅広い意味での学びの機会はほかにもいろいろあって、たぶん、そうした「ほかの機会」のほうがより重要なのだ。

先日、隣席の同僚が一週間近く職場を空けた。ことわっておくが、ライフワークバランスの推進なら支持する立場だ。だから、いかに年度末が押し迫っているとはいえ、休暇をとったこと自体を咎めるつもりは毛頭ない。問題は、前後の気配りが感じられなかったことだ。本人が旅行を満喫している間、あれこれ進めておいて欲しいと手書きのメモを残されたうえ、何かと私がフォローする羽目になった。気になる用件なら、あらかじめ片付けておくか、きっぱりストップするのが然るべき配慮ではないか。本人が戻り、以後の進め方を提案してみたところ、「別件で手が回らへんから、よろしく」と返ってきた。「そら自業自得でしょ。すでに助けてんのに、まだやらせます?」そんな本音も、私は口に出せない。

救われない気分になるのは、私の資格(等級)が、こんな同僚と同じという現実を意識するときだ。下から2番目の、若手ばかりの資格へ降格させられたのも共通していて、人事部には「同列」と見なされているに違いない。その同僚はもう早期退職を選択できる年齢だから、遠からず、私が同一資格で最年長に繰り上がる可能性もある。いっそのこと、私も同じように思いきり休んで、同じような態度で働けばいいのだろうか。そんな気持ちが頭をもたげることはあっても、とても実行できない。人によって、まかり通ることと通らないことがあり、我慢させる側とさせられる側に分けられてしまうのは、なぜだろう。世間で「格差」という言葉が用いられる場合、もっぱら貧富や収入といった金の話題になるが、私にはこんな格差のほうが気にかかる。

来月でまた一つ歳をとるが、いまだにわからないことが多くてうんざりする。20年以上前に戻り、受験生の頃の自分に話ができるなら、どんな言葉をかけられるだろう。単語帳や赤本をかじってみるより、いろいろ経験して世間擦れすることのほうが大事だと、今ならわかる。ただ、それを若い人たちへ説いて推奨したいかとなると、今でも気が進まない。例によって鬱々と年度末の雑事に追われていると、異動の辞令を受けた。中抜けの1年を挟んで合計15年も過ごした現部署から突然、今月いっぱいで離れることになった。希望も無ければ予感も無かったから、不意を打たれた感覚だ。折しもホワイトデー、頭が真っ白になる日だとは、今日まで知らなかった。


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