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編むこと

私にとって編むことは、
いくつかの意味がある。

達成感を得られるツールであり、
肩こりと腰痛の原因であり、
(時には頭痛も引き起こしている可能性大)
視力の低下(老眼)を思い知らされる時間であり、
手先の器用さをアピールできるものであり、
全てのストレスを発散できるものであり、
世界にひとつのものを生み出す満足感を、
手に入れられるものであり、
自分にOKを出せるものなのだろう
と思っている。

要は、
しんどさと、愉しさが両立している。

誰にとっても、
趣味とは、そういうものなのかもしれない。

私の中では、趣味というよりも、
人生の一部。
おおげさかもしれないけれど、
私をつくってきたもののひとつ。

はじめたきっかけは、
もう思い出すことも出来ない。

気づいたら、手に持っていた。みたいな。

ひとりで、もくもくと編む時間がすき。

出来上がったものを、
誰かが使ってくれるのは嬉しい。

でも、
どちらかと言うと、
作るために編む、というよりは、
編むために作っている。

「服がほしいなぁ」
ミシンを出すわけでもなく、
買い物に行くでもなく、
編む。

かわいいなぁと思う何かを見て、
「編むならどこからどうして編むかなぁ〜」
なんて、
考えてる時がある。

はじめは、
本をたくさん買って、
そのうちのいくつかを、
本の通りに作って満足だった。

そのうち、
本は全く買わなくなった。
(編み目模様の本は時々買います)

今では、
得意な針で、
得意な技法で、
得意な編み目で、
作りたいものだけを作っている。

私が私であると、目視できるもの。
私の頭の中を、具現化するもの。

 それは、自己表現だった。

自己表現ということは、
どうやら、
ただの自己満足だけではないみたい。

ただの自己満足なら、
誰にも知られなくていいはず。

私は、委託で販売している。
誰かに見てもらいたい、
あわよくば、買って頂きたい。
と、思っている。

時には、ワークショップしたりして、
作り方を教えるような事もしていた。

誰かに評価されたい、
認められたい、
受け入れられたい、
そんな、欲求が隠れているらしい。

 そして、それは、
 誰にでも、当たり前にある欲求。

私にとって、編むことは、
生きる為に必要な欲求を、
満たすためのものでした。

それは、
それなりに、
ある時は否定感を生み出し、
ある時は肯定感で満たし、
やっぱり、
しんどさと、愉しさが両立している。

ここ数年、
心理学を学びはじめて、
編みたい欲が薄くなっている事に気づいた。

単に、
老眼が進んで疲れるからか。
他に考える事(心理学の学び)が出来たからか。
はっきりとした理由はわからない。

あれだけ四六時中、編み針をにぎっていたのに、
今は、
数日も数週間も編み針を触らない時がある。

まるで、人生のステップを、
次のステージへと進んだかのように。

自分の人生の、一部だと思っていたものが、
自然と手を離れようとしている。

そうはいっても、
時々は、やっぱり編むし、編みたいし、
編む道具や、その時間が好きなのだけれど。
このまま、自然の流れに身を任せてみようと思う。

行雲流水
私にとって、編むことは、
人生の一部となる程、大切なものであり、
取るに足らない、些細な一部分でもある。

みなさんにとって、
気づいたらやり続けてるなぁって事は、
なんですか。

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