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ADHDの頭の中 (祖父の思い出)

おじいちゃんの机の上は宝の山だった。

わたしが転げ落ちて今も残る縫い傷を作った階段の上には、机の置いてある部屋があった。
2階には四畳半の和室と12畳の洋室があったのだが、12畳の洋室の窓際にお爺ちゃんの書棚やにオルガンやら机があったのだけれど、祖父はいつも1階の居間で作業をしていたし、12畳の洋室には叔母2人の寝るベッドがあった。
机はたしかに祖父のものだったと思うが、当時中学生や高校生だった叔母たちが勉強に使うことも出来たはずだし、多分使っても居たのだと思う。

ただ、わたしが小学校に上がる頃には一番年下の叔母が高校を卒業する頃だったためか、叔母がその机を使って勉強をしているのを見た記憶はない。
うーん・・・叔母は、市内ではまあまあ普通に勉強の出来る私立高校に通っていたので、勉強を全くしなかったわけでは無いのだと思うのだけれど、そこは多分、わたしが帰って居なくなってから勉強していたのだろうと思う。

2⃣階の部屋には南向きの日当たりのよい大きな窓があり、北国のため、ガラス戸が2重になっており、外のガラス戸と内側のガラス戸の間に30cmほどのスペースがあった。
祖父の机はその窓に向かっておいてあり、机の上には事務用品のほか、少しの本とわたしの興味をひくようなものが乗っていた。
覚えているのは鉱物の標本であったり、丸いガラスの中に花の模様が見える文鎮。引き出しの中にもスポイトやら試験管やらリトマス試験紙などがあった。
窓のスペースに木の箱があったが、それの中身は顕微鏡で、祖父はその使い方を教え、小学生のわたしも壊さないように気をつければ使って良いと言ってくれた。

いろんなものを片っ端から顕微鏡で見るのが面白かったので、息子が小学生になる頃にSmarterKidsから900倍の顕微鏡を買ってあげたが、息子は興味を示さず、それもわたしのおもちゃになってしまった。
顕微鏡で900倍を合わせるには、ピントを合わせるにもプレパラートを作るにもコツが要る。しかも品質はおもちゃだ。子どもにこれを楽しめといっても無理があるよね。

叔母たちの寝室にもなっていたこの部屋は、祖父の書棚やオルガン、碁盤や碁石なども置いてあり、どういうわけだか洋酒の瓶がいろいろはいったキャビネットも2階にあった。それを自由に遊びに使っていたと思う。当時、囲碁はわからなかったけれど、碁石を並べて遊んでいたし、碁盤はその後わたしが譲り受けたが、碁石が欠けてひどい状態になっていたので、碁石と碁笥は新しいものを買った。

祖父から碁を教えてもらったこともないし、祖父と碁を打ったこともないけれど、大学時代にちょっとしたきっかけで囲碁を始めたわたしに、祖父が風呂敷にいれた碁盤をもってきて留守の間に家に置いていったのだ。
祖父がわたしと打たなかった理由はよくわからないが、近所に住んでいた大叔父は、わたしとよく碁を打ちたがり、
「兄さんは碁が強かったよ」
と言っていたので、そこそこ強かったのだろうと思う。

祖父に打たない理由を聞くと
「勝負事は、負ければ悔しいし、勝つと申し訳ない。だからあまり好きじゃない」
ということだった。何か嫌な思いをしたのだと思う。それでも碁自体は嫌いじゃないから脚付きの碁盤も捨てずに持っていたのだろう。碁石も薄いものながら、ハマグリと那智黒だった。

囲碁というのは、ルールをおぼえたらすぐに出来るというタイプのゲームではない。最初はよくわからないけど、石を取られないように工夫して、よくわからないけど上手に全部取られて負けを認識するくらいのものだ。盤面の石が生きてるとか死んでるなんてことがわかるには、勘のいい人でも1週間以上かかる。
囲碁と相性が悪い人は、その手前で挫折してしまう。囲碁を楽しめる段階まで行ってやめる場合は、何か原因がある可能性が高い。
打った感じでは大叔父でも初段の少し手前くらいの実力はあったから、その大叔父に「強い」と言われる祖父は初段以上はあったのだと思う。

わたしも譲り受けた碁盤を傷めないように一度はハマグリと那智黒で碁石を買ったが、やはり学生時代に囲碁絡みで嫌な思いをしたので、その後はほとんど使うことはなく、碁石自体はヒカルの碁の影響で囲碁をやるようになった息子に譲った。
(碁盤は足がグラグラして使いにくいので要らないといわれた)

ヒカルの碁のおかげというか、ヒカルの碁のせいでというか、わたしはその当時、結構な人数の初心者指導をしている(タダで)。何しろ漫画から興味をもって囲碁をやってみようと思っても、近所の碁会所なんて爺さんばっかりだ。小学生が寄り付くはずもない。
「あいつの母さん碁が打てるらしいぜ」「え?マジで?教えてくれるかな」
こんなノリである。クラスの交流会で10面打ちをさせられたのは、今思い出しても頭が痛い。

父とは違う書棚

父の本棚は文学系の本よりも実用書が多かったが、祖父の本棚は文学全集や美術全集なども置いてあり、理科の先生らしく科学系の本もあった。
さらに言えば、叔母が読んでいる雑誌なども転がっていて、何を制限されるでもなく好きなものを好きなように楽しむことが出来るこの部屋が大好きだった。

当時、叔母は洋楽が好きで・・・といってもビートルズが好きだったらしいのだが、ピンク・フロイドのレコードが窓際に置かれていたために熱で歪んで聴けなくなっていたのをがっかりしていたので、ビートルズ以外も聴いていたのだろう。

中学生の頃に洋楽を自分で聴くようになったとき、耳おぼえのある曲が多かったのは叔母の影響で、ラジオやレコードを一緒に聴いていたからだと思う。英語がわからない子どもがBeatlesの曲を鼻歌で歌えていたのは、何か不思議な気がする。子供の耳ってすごいね。中学生になって英語を学習するまで、わたしは自分が歌っていた歌の歌詞の意味を知らなかった。

父も祖父(母方)も理科の教師であった。だからといって父と比較するのはどうかと思うが、父は子どもに関して『子供らしさ』という像(というか理想?)を求めていたような気がするが、祖父はそういった『子供らしさ』など関係なく孫に愛情をそそぐタイプで、わたしが何を言っても何に興味を持っても、孫の可愛らしい好奇心と受け止めて相手をしてくれていた。

今となって思えば、わたしのADHDについて唯一何か気づいていたのが祖父だったかもしれない。書くのが大嫌いなわたしに
「お祖父ちゃんと漢字を早く書く競争をしよう」
といって、ハンデをつけて漢字の練習帳に文字を書く遊びをしてくれていた。字はきれいに書けなくていいけど、形は間違いなく書こうというルールがあった。
祖父は書道の師範の資格も持っていたらしく、たまに学校で使う賞状などを家で書いていたことがあるが、わたしに対して字をきれいに書くということを求めて来たことは無い。
ピアノを習い始めたときも、途中で投げ出したことを責めることはせず、じゃあ、おじいちゃんと一緒に弾こうといって、連弾をしながら楽しく教えてくれた。

それと、わたしは子供の頃から分解魔で、時計だのオルゴールだの『仕組みが不思議』なものをみると分解して謎を解こうとするクセがあり・・・祖父のモノもかなり壊したと思うが、仕方がないといいながら自分で修理していた。オルゴールは直せていたと思ったが、時計はもとにもどせなかったようだ。
(おじいちゃんごめんなさい)

幼児期に、父が1週間かかって作ったラジコンカーを分解した記憶がある。父はわたしを直接叱ることはしなかったが、部屋に引きこもってしまったような記憶がうっすらある。(パパもごめんなさい)
でも・・・あんな面白いもの(ガルウイングドアの車)を、小さな子の手の届くところに置くほうが悪い。幼児期のわたしが分解魔だってわかっていたのだから。

わたしは他人を傷つけるような言動をしたり、攻撃的な態度に出ることもでは無かったので、危険が及ぶようなことをしない限りは祖父に叱られたことはない。
ただ、祖父は酒もタバコも嗜む方だったので、わたしはそれが嫌だった。
酔った祖父は普段と目つきがちょっと変わるし、ちょっと性格も変わった感じがして怖かったので近づかなかったし、タバコはやめてほしいと小さい頃から何度も言っていたような気がする。タバコをやめさせたいと思った理由は憶えていない。タバコの匂いが嫌いだったからというのもあるけれど、なんとなくそれがおじいちゃんの体には良くないとは思っていたのだと思う。

ただ、不思議なことに父方の祖父のほうがヘビースモーカーだったのに、父方の祖父に対して「タバコをやめて」と言った記憶はない。父方の祖父は結核を患っていた時期があり、肺は弱っていたはずだ。

母方の祖父は胃がんで亡くなり、父方の祖父は膵臓がんで亡くなった。
胃がんは喫煙との関連が疑われるがんだ。
母方の祖父は定年退職後に喫煙をやめたが、77歳で亡くなっている。

祖父から教えられたこと

祖父から「教えられたこと」は何だろう?
一緒にオルガンを弾いたりはしたけれど、教えられたかといえばそうではない。
「お手本~」って言って弾いてもらったことはあるけれど、わたしが弾くことについてアドバイスをもらった記憶はない。
書道の師範をもっていても、わたしが書く字について祖父がアドバイスすることはなかったし、勉強を教えてもらったこともない。

ただ、興味を持ったことについて背中を押してもらったり、興味をもったことを一緒にやってくれたことはたくさんある。知りたいことを調べることや、やりたいことを実現することについては祖父が一番の協力者だった。
教えるではなく、理解し、見守るのが祖父のスタンスだった。

記憶力があるようで無い、あるいは無いようでいてあるという我儘なわたしの脳みそには、大人が頑張って教えようとしても素直に入ってこないのかも知れない。
興味があることに対しての記憶力は異常なくらいだと言われたことがある。
おそらくわたしは『教えられること』がとても下手なのだ。

長年教師をやってきた祖父が、教えるのが上手いとか下手ということは、教えられた生徒でもなければわからないことなのだろうけれど、祖父はわたしに「教える」ということはしなかった。けれど、数え切れないほどの教え子を見てきた祖父は、わたしの様子をみて何かを感じ取っていたのかもしれない。

ADHDにもいろいろなタイプがあると思うが、おそらく、わたしのようなタイプには、単に教えてしまうことは効率が悪いのだろう。教わっても大半は頭に入ってこないから・・・。

勝手に学ぶので、間違った方向に進まないように見守ったり後押しするのが良いのだろう。
少なくとも祖父はそうしていたように思う。


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