私たちはなぜ学ぶのか(9)ー「自転車が乗れた時のように、何かが身についた前と後では風景が変わる」その新しい世界を観る喜びのため
(2022年12月11日付 朝日新聞「知は力なり」慶応大学教授(物理学) 松浦壮氏の言葉から)
「学ぶ」ということは、
「ひとたび自転車に乗れてしまったら、自転車に乗れない自分を想像できないように、何かが本当の意味で身についた前と後では風景が変わってしまうということである」
松浦氏は、幼い頃父親から教えられた数字の不思議に触発され、数の世界への【眼】が開いたと言う。
ー父親の話というのは、2+4=6、6÷2=3、2と4の間の数字は3。「足して半分にするといつも真ん中の数字になるんだよ」🤔
何かが出来るようになるということは(それが、計算でも読み書きでも運動でも)、出来なかった過去が必ずあって、そのことに向かい合って出来るようになった自分だけの経験があると言うことである。
誰かに教えられたことでも、それを自分の身体に染み込ませる体験は自分だけのものである。このことは、まさに「研究」と言えるものである。
「私たちは皆、人生の中で何度も新しい【眼】を獲得し、その度に風景を一新してきたわけです」
「これが得がたい喜びであるのは、言うまでもないことでしょう。このことは、『なぜ学ぶのか?』という問いへの答えのひとつです」
私たちは、積極的に【眼】を開き、自覚的に新しい世界を観るために学んでいます。そのための要訣(=一番大切なこと)はなにか?
「研究者たれ」
おそらく、この一言に尽きるでしょう。
この研究とは、例え世界中の人が分かったと言っていることでも、自分がわからないことなら納得するまで向き合うプロセスのことである。
「この取り組みはわかっていない自分自身を楽しむことでもあります」
この記事を読んで思ったことは、松浦氏もさることながら彼の父親の子供への関わり方である。こんな何気ないお風呂での会話で、子供の好奇心を刺激し、研究者にまで向かわせてしまう力ー洞察力というか先見性というかーがすごいと思った。おそらく自分の息子の素質を見抜いていたのではないだろうか。
これぞ教育というものでははないか。教育とはこんな風に手渡しで授けるものなのではないかと思う。知識だけを詰め込む「教育パパ」ではない、「教育者」である。
そうでなければ、「わかっていない自分自身を楽しむこと」という純粋に学ぶことを楽しむ言葉は、彼の息子からは出てこないと思う。
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