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ドキュメンタリー映画「国葬の日」(大島新監督)ー浮き彫りになった「日本人の無関心」

この映画は、安倍晋三元首相の国葬が行われた2022年9月27日一日を日本の10ヶ所の場所で人々がどのように過ごしていたか、国葬についてどう思っているかを撮影者側の主張を入れずにカメラを回し、ありのままを編集したものである。葬儀の3日前に思い立って、各地で撮影したもので結果をあらかじめ想定して作られたものではない。

ロケ地の選定は大島監督によると「すぐ決まったのは、東京、下関(安倍元首相の地元)、奈良の銃撃現場、沖縄(辺野古)、福島の5か所。これはその土地が持っている意味や、安倍政権との関係性で決めました」

後の京都、広島、長崎は、外国人の視聴者を意識して有名な都市を選んだ。そして数日前に洪水の被害を受けた清水、北海道から札幌。

この映画を作った意図を大島監督は以下のように答えている。

「世論調査では国葬反対の声が増していきました。またか。私はこの空気に懐疑的でした。『みんなが反対と言っているから反対』しているように思えたからです。日本人の多くは、少数派の側にいたくない。この数年、私がつくづく感じていることです。だって、そのわずか2か月前、安倍さんが亡くなった2日後に行われた参議院選挙で自民党を大勝させたのも、日本の有権者でしたから。そこで、9月27日に全国10都市で撮影をする映画を作ると決めました。

国葬や安倍晋三さんという人のことを、本当のところどう思っているのか、人々のリアルな思いを知りたかったのです。話を聞かせてくださった方は数十人ですが、そこには実に様々なバリエーションがありました。日本人とは、何なのか。私自身が、この映画を作る過程で多くの発見をし、かつ、完成版を観てたいへん困惑しています」
(『国葬の日』大島新監督 日本人の「無関心」をホラー映画のように描き出す異色ドキュメンタリー【Director’s Interview Vol.352】Yahoo newsから)

「たいへん困惑しています」とは? 明らかになった「日本人の無関心?」

「分断するほどの意志も見えないというのが、今の日本の現状だったという気がしました。日本の人口をテロップしたのも大多数の人達はどうだったんだろう?という思いからです。物凄い人が献花に並んだって言うけれど、2万何千人程度。でも日本には1億人以上の人がいるわけです。普通の人はいつもと変わらない日常を生きている」


民主主義は、公開での議論と国民への説明責任そして判断したことへの責任を求める制度である。だから民主主義は、制度であると同時に、我々の日常でも実践されなければ、なんの意味も持たない。と私は信じている。

「民主的社会を支える基盤は多様な言論活動です。かつて自由主義思想家のジョン・スチュアート・ミルは、言論の自由が重要である理由を以下のように説明しています。

『もし少数派の意見が正しいとすれば、それを抑圧すれば、社会は真理への道を自ら閉ざしたことになります。仮に少数派の意見が間違っているとしても、批判がなければ多数派の意見は教条化し、硬直化してしまいます』」(「民主主義を信じる」宇野重規著から)

だが映画に登場した人々に少なからずあったのは「お上が決めたことなんだから。当日まで騒ぐのはみっともない」という意見。すでに国民の主権さえ手放してしまっている。これを決定するのは国民だという意識さえない。その上政治に対するナイーブな意識。

安倍元首相国葬の決定過程が、我々国民に明確に説明されていないうえ(法的根拠も手続上・慣例上においても)、首相としての安倍氏本人の功罪もまだ検証されてもいない。本当に国葬に値する人物なのか?そんな状況で国葬を決定挙行したことにいつものことながら不快な思いでいる。

このドキュメンタリーで一番胸に響いたのは、沖縄の辺野古の地で連日座り込みをしている人々の姿である。警察官によって一人一人排除されていき、そこに待機していた何十台もの大型トラックが雪崩を打ったように埋立の土を運ぶ光景である。

「『国葬?』どんなに騒いでも1週間もすれば忘れてしまうでしょう?私たちは、1年中ここで声を上げ続ける」


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