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今日ときめいた言葉1ー「呼び寄せたのは労働力だが、やってくるのは人間だ」 他

ー2022年9月4日付 朝日新聞 「日曜に想う」沢村亙 の記事に見つけた言葉ー

「呼び寄せたのは労働力だが、やってくるのは人間だ」

この言葉、現在の日本の外国人労働者について言ったものかと思ったら、1960年代のスイスにおけるイタリア人労働者を見下すスイス社会の欺瞞性を質した警句だそうだ。この言葉を発した人は、マックス・フリッシュ。20世紀スイスを代表する作家だそうだ。スイスはその後、移民を包含する多文化の国として自己変革を目指し、現在にいたっている、と。

外国人労働者抜きには経済活動が立ち行かない状況は、当時のスイスも今の日本も同じである。日本においてもスイスのように自己変革ができ共生社会が作れるのか日本人の人権意識が問われている。

技能実習生の悲しい話を聞くたびに日本人・日本社会に人権や人道に対する意識は存在しているのだろうかと心配になる。近代化と言って「脱亜入欧」を掲げて、アジアの人々を蔑視した歴史の記憶が、現代の我々の意識の中に引き継がれていないだろうか。欧米人には卑屈なくらい気を使うのに、アジアの人々を見る目が上から目線になってはいないだろうか。1983年から10年余りマレーシアに滞在した身としては、日本人社会にはその意識が確かに存在していたと確信している。もちろん、私も例外ではなかった。だから今度こそ、

「外国人労働者を労働力という物ではなく、我々の隣人として受け入れる日本人でありたい」

日本はすでにアジアの人々をから選ばれなくなっている国だと言う事実をしっかりと認識しないといけないだろう。


(2)   「知識とは時にそれだけで、人を傲慢にする」

        (2022年9月7日付 朝日新聞「カバンの隅には」澤田瞳子から)

この記事は、澤田氏が、カカシを作らなければならなくなって、いざ作ろうとしたら想うほど簡単ではなく、素材から作り方まで何も知らないことを痛感した時に、「知識とは何か?」と問うた一文である。

「なるほど、私はカカシを見たことはあった。だがそこで得ていたのは所詮、経験に基づかない頭でっかちの知識。仮に一度でもカカシの間近に寄ってみれば、必要な棒の長さで悩むことも、稲藁が要ると驚くこともなかったのに。

知識とは時にそれだけで、人を傲慢にする。そして考えてみれば世の中の出来事や日々目にする様々な品物の中で、一人の人間が本当の意味で『知っている事』は、どれほどあるだろう」

以前書いた記事「私たちはなぜ学ぶのか?」=「自分に見えないことがあると知ることだと思います」にも通じる一文であった。「知っている」と思っている自分に、まずは目を向けよう。

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