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私たちはなぜ学ぶのか(10)ー「何を学ぶか、何のために学ぶかという問いが素通りされていないか」

久しぶりにこのタイトルで書いておこうと思ったのは、私の心の奥にある「青くさい感情」(😅)が刺激されたからだろうか。

(2024年7月7日付朝日新聞「日曜に思う」ー教養とは?人生雑誌に見る向学心」記者 有田哲文氏の記事から)

有田氏によると、1950年代に隆盛を誇った人生雑誌(代表的なものとして「人生手帖」「葦」などがあるそうだ)と呼ばれる雑誌の主な読者は中学を出て働く若者たちだったという。彼らが何故これらの雑誌を読むのか。それは「(自分の人生に)不満と不安があるからだった」という。雑誌の投稿欄には読者からの不満や不安がにじんでいるという。

家庭の事情で高校に進学できなかったことや辛い労働の日々への嘆き。でもその鬱屈を学びに向ける人たちがいた。彼らの向学心が読書に向かわせた。「読書することによって学校で学べないことまで知ることができる」と投稿した人がいた。

「人生雑誌と働く青年の教養の歴史」に焦点を当てて研究してきた福間良明立命館大教授は、これらの人生雑誌の内容は、哲学者のエッセー、平和問題や労働問題などの論考等、教養志向で「義務教育を終えただけの人が読む内容にはとても思えなかった」という。日々の仕事に追われるだけでなく、政治や文学を学びたいということが誌面で語られているという。彼らは学歴のためではなく本物の勉強がしたかったのだ。投稿の一つに、

「教養とは学歴のあることを意味するものであろうか。いや違う、物事に対して正しい理解を持ち、発展させていける人を教養高き人というかも知れない。であるとすれば、中卒である人にもできる」

私はこういう人たちがいたことを知るたびに自分がぬくぬくと怠惰に生きてきた人間だと感じる。そして、こういう人には到底かなわないと思うのだ。

現代でも教育格差は大きな問題だし、それを是正しようと「教育の無償化」が議論されている。だがそれ以前に「教育は就職のため、資格取得のため。そんな論理ばかりになっていないか。何を学ぶか、何のために学ぶかという問いが素通りされていないか」とこの記事の筆者は問いかける。


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