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挫折した子連れ留学、でもあなたに出会えた!

ジョーンと会ったのは、オーストラリアのキャンベラにある国立大学の日本語研究科の一室。私は、入学を一年延期してもらう許可を得るためと、大学の下見を兼ねて大学を訪れていた。日本人学生に混じって、彼女がいた。穏やか物腰、すぐに親しみを感じる雰囲気のオーストラリア人だった。

初対面にも拘らず、ボルネオからやって来た私に付き添って、大学の施設をくまなく案内してくれた。キャンパスのベンチでお昼を共にしたあと、大学構内にある保育園に連れて行ってくれて、次年度のウエイティングリストに我が子を登録するよう勧めてくれた。

ここには、学生も職員も子供を預けられた。学生と言っても日本の大学のように同じ年齢層の若者だけがいるのではなく、いろいろな年齢層のいろんな国の学生が学んでいた。この話、ウン十年も前のことである(日本の大学院で学んでいた時に、食堂で保護者と間違われたような事態は、ここでは起きない😡)多様性など、もうとっくの昔に実現していたのだ。

その時の私は、ボルネオでの生活に物足りなさを感じていて、たまたま手にした上述の大学院の募集要項を目にして、応募してみようと思い立ったのだ。国立国語研究所の日本語教育課程の長期研修生だったこともあって、当時の担当教官に推薦状を書いてもらい、TOEFLを受け、出願したら受かってしまった。

と同時に第二子を妊娠していることが判明。そんな訳で、一年の入学延期の許可をもらいに行ったのだ。今思えば、子連れ留学など無理な話だったのだ。第一子だけならまだしも、8か月のニ子も伴ってなど無謀なことだった(でも、やらずに後悔するならやって後悔したほうがよい、と勢いでやってしまった)

ジョーンは別れ際、「来年来る時は、生活が整うまでうちに滞在しなさい」と言ってくれた。その後も色々連絡をくれ、我々が住む予定の大学所有のアパートも彼女の家から至近距離のところを選んでくれていた。

彼女には子供が2人いて、下の男の子は私の長女と同い年で、上のお姉ちゃんは3〜4歳ぐらい年上だったと思う。その一年を待っている間に彼女も妊娠して、二女と3ヶ月違いで男の子を出産した。私達2人は、ともに乳児を抱えた学生になった。最も彼女は博士課程だったけど。子育てとか家庭の事情でかなり長く博士課程に在籍しているようだったが、それは彼女が自分より家族を優先して研究をしてきたからだろう。

授業が2月に始まるので、1月に2人の子供と現地に到着した。ジョーンが飛行場まで迎えに来てくれていた。ここで大きな誤算が生じた。当てにしていた学内の保育園には入れなかったのだ。保育園を探すのに手間取った。working motherと同じだ。これが決まらなければ全てが終わりだ。

ジョーンの尽力で、大学とは反対方向にある保育園に入れることができた。彼女の家からアパートに引っ越す時、彼女が “You must come to see us every  Sunday” (毎日曜日必ず会いに来なきゃだめよ)と言ってくれた。すごく心強かったし、うれしかった。そして、いつも昼食をご馳走になった。フランスパンに、kipper(燻製ニシンのオイル漬け)のサンドウィッチ。

授業はきつかった。毎週渡されるreading assignment 宿題のプリントは分厚く、私には読み切れなかった。読解力のハンディは歴然としていた。そのプリントをもとに先生が問題を出すのだから、当然できない。自信をなくしている心に追い打ちをかけるような一言。

「子供たちのために夫の元に帰りなさい」

診察を受けに行くたびに、当時子供たちの小児科医だったおばあちゃん先生に、こう言われ続けた。その言葉は、自信を無くして弱っていた私をさらに打ちのめした。

決定打は、子供たちの保育園が倒産したこと。それでなくても長女は、情緒不安定だったような気がする。絵本の中に悲しい顔をした動物が出てくるとよく泣いていた。わずか6ヶ月後、私は退学を決めた。

ジョーンは、引っ越しの後片付けは全部やるから、バックヤードに出しておいてと言って、最後の最後まで面倒を見てくれた。ボルネオに戻ったあと、ジョーンは、当時私の置かれていた状況や心情に、深い同情を寄せる内容の手紙をくれた。

日本に戻った頃、ジョーンからカードが届いた。肝臓がんだそうだ。病状は思わしくないとあった(“It looks gloomy” の文字が胸に突き刺さった。その時、すぐ会いに行けばよかった。今でもずっと後悔している)

彼女の夫からカードが届いた。ジョーンが亡くなったと。その中で、彼は彼女の人柄を讃え、あまりに短い人生を悼んでいた。そして、自分は十分に良い夫だったろうかと自問していた。

2人は日本に留学している時に日本語学校で出会い、日本で結婚した。彼らの長女は日本生まれで、保育園にも通っていた。ジョーンは亡くなるまで、Australia-Japan Research Project 豪日研究プロジェクトのリサーチスタッフだったようだ。

以前、日本軍の捕虜が収容されていたオーストラリアのCowraカウラ戦争捕虜収容所(日本人捕虜最大の脱走事件で死者数の多さでも有名)について、話してくれたことがあった(このプロジェクトに携わったのは、ジョーンのお父さんがボルネオのサンダカンで日本軍の捕虜になった体験を持っていることと関係があったのかもしれない。日本では、日本軍がオーストラリア軍と多くの戦いを交えていたことは、あまり語られていない) 注 サンダカンは、あの「からゆきさん」を扱った本「サンダカン八番娼館」のあったところである。

それから程なくして、三人娘を伴ってキャンベラのジョーンの家を訪ねた。彼女と同じように、彼女の夫も家に泊まれと言ってくれ、彼女と全く同じhospitality を持って我々を遇してくれた。その頃彼は、母親を亡くした子供たちのために在宅勤務をしていた。もうウン十年も前のことである。彼我の違いを痛感した。

勢いでやってみた子連れ留学。でも無謀な子連れ留学が、ジョーンに引き合わせてくれたことを思うと、失敗や挫折も悪くない。今まで生きてきて、彼女のような素晴らしい人に、まだ出会えていない。私自身だって彼女に近づけてもいない。ああ、あなたに、もう一度会いたい。

追記

今でも、朝コーヒーを入れる時、必ずジョーンを思い出す。コーヒーカップを温めるためにジョーンがお湯を入れていた。私は知らずにそこにコーヒーを注いでしまった。「あっ」と思ったけど時すでに遅し。「平気。分かんないわよ」とジョーンに言われるままに、彼女の夫にコーヒーを手渡す。そうしたら彼が「ん、今日のコーヒーは薄いな」と言った。私とジョーンは目配せしながら笑いを押し殺した。毎朝、コーヒーカップにお湯を注ぐ時、この光景が浮かぶ。




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