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タンザニアで考えたこと (その8)

#日本人と中国人

街を歩いていたり、オートバイに乗っていると、必ず一日数回以上は、「Chinaチーナ」と言われる。それが、鼻垂れ小僧なんかに言われると思わずムカっとして、オートバイを止めて「中国人じゃないわい!」と叫んでしまう。でも、母国語ではなくて、スワヒリ語なのでちっともすっきりしない。どうと言うことでは無いのだが、言われると無性に腹が立つ😡。

しかし、タンザニア人ばかりか、西洋人いや日本人にだって、中国人、韓国人、日本人の区別は恐らくつかないだろう。ただし、ここに住んでいる北朝鮮の人は見てすぐわかる。彼らは、必ず集団で行動する。1台の車に5〜6人が乗り、申し合わせたように真っ黒いサングラスをかけ、お揃いの白の開襟シャツ、黒ズボンといった出立ちだからだ。

どこの組の人たちなのだろうなんて、振り向いてしまう。同じアジア人なので街で出会うと、じっと凝視されるが、絶対に話しかけてはこない。沈黙の中であのサングラス集団に見つめられたら、あまり良い気分はしない。

中華レストランのマスター(香港から来ていると言っていた)を除いて、不思議と街で中国人には出会わない(このレストランでは、スパゲティーのような焼きそばをよく食べたものだ。まがいものでも、とってもうまく感じた。時々、餃子なんかにもありつけた)

タンザニアは、中国寄りの社会主義路線をとっているためか、あらゆるものに中国の息がかかっている。スーパーマーケットに行けば、made in Chinaの粉ミルク、食器、食料品、衣類などが目につく。品質はお世辞にも良いとは言えないが、すでにこの時期に着実にアフリカに食指を伸ばしていた中国の先見性というか野心に、感服する(今では「債務の罠」などと言われて警鐘がならされているが、中国はウン十年前から既にアフリカ諸国の隅々にまで浸透していたのである)

中国資本によって建設されたタンザン鉄道(タンザニアとザンビアの両国が共同所有)は、枕木の一本一本に漢字で中華人民共和国と言う文字が刻まれている。ザンビアまでの1860キロの間に、この枕木が整然と横たわっている。なんとも壮大な光景である。

# 飛行機

きちんと切符を買い、リコンファームを済ませて、翌日、飛行場へ行ってみると”Leo hakuna  ndege”」(今日は飛行機がない)と言われて、戻ってきたと言う話を度々聞く。乗る時間にならないと飛行機が飛ぶか、飛ばないかわからないというのが面白い。

切符を買っても、当たりとハズレがあって、当たりじゃないと乗れないようだ。たまたま、往きが当たりで乗れても、帰りがハズレだと、当たりが出るまで飛行機には乗れない。帰って来られなくなって、何日も現地に留め置かれたなんてことが、よくある。”Bahati Mbaya‼️“ 緻密にスケジュールを立てる人、気の短い人には、とても不向きな国である。

#  雨

大雨期に降る雨ほど壮観なものはない。海のほうに、真っ黒な雨雲が広がって雨足が見える。そのうちにザーッとやってくる。部屋にいて眺めるその様は、凄まじい。3メートル先さえ、視野が効かない。庭の土が低い方へ低い方へ流されていく。聞こえてくるのは、その激しい雨音だけである。

外にいるときに、この雨に会ったら、それこそ命がけである。オートバイもろとも溺れそうに(?)なったことさえある。水はけの悪い箇所が、あちこちにあるダルエスサラームの市街は、すぐ水深膝小僧位になってしまう。

その水たまりと言うより洪水を渡る時、どうかエンジンが止まりませんようにと念じつつ、両足を前方に上げて水中に突入する。水は、左右に弧を描いて跳ね上がる。これが成功したときの達成感というか、充足感というか、なかなかいい気分である。

ところが、「ダ、ダ、ダ、ダ」と動いていたエンジンが「ダ・ダ・ダ、、、ブス」などと止まってしまったら、さあ大変。両足などを上げてはいられない。これが、二輪車の悲しさである。膝小僧まである水の中をオートバイを引っ張って歩くのは、なかなかと力のいるもんだ。

それでなくても、めげてしまって力が出ない。その上、対向車のかき散らした水を、頭からざんぶりと浴びせかけられて、ただただミジメ。雨は痛いほど打ちつけてくる。「あー、雨がロマンチック」などと、誰が言ったのだろうか。

家にたどり着いたときには、身も心も疲れ果ててぐったり。そして、何よりしゃくにさわるのは、その頃には青空が見え、太陽が照り出していることである。


あとがき

思えばウン十年前、私は日本の社会にすっかり絶望して、タンザニアに赴いたのである。その頃は、セクシャルハラスメントやパワーハラスメントなどと言う用語等もなく、男の暴言や横暴に、くやし涙を流していた。男尊女卑は朝飯前。男女の賃金格差など不問であった。

タンザニアから戻り、その後十年に及ぶマレーシア滞在後、久しぶりに日本に帰ってみても昔と何ら違いを感じなかった。男女雇用機会均等法ができたとか、セクハラ・パワハラなる言葉が幅を利かしているとか、子供の権利憲章ができたとか、老人福祉が充実した、うんぬんと耳にしたけれど、なんだかとってもうつろに響いた。

そんなの、みんな見せかけだけじゃないかと感じてしまう。むしろ、昔よりも手口が巧妙になった分、自体は悪くなっているのではないか。本当に変わろう、変えようとしていない証拠は、教育を見ればよくわかる。ウン十年前の私の小、中学校そして高等学校時代と何ら変わらない教育をしている。

文科省が決めた教科書を、文科省が決めた方法で、100年1日のごとくに繰り返している。これって、戦前の教育とどこが違うのだろう。お題目を唱えているように退屈な授業を見ていると、皆よく我慢しているなぁと感心し、その愚直さに呆れもする。先進国と言われる国々と比較しても、日本の教育だけが、異質で、全体主義的色彩がかなり強い。日本は閉鎖社会だから、皆はそのことに気づかない(若者の国内志向が強まっている昨今、日本社会はますます閉鎖的になり、多様化どころの話ではないように感じる)

他の国々が、人権や環境問題や平和教育に焦点を当てているときに、日本の学校教育は、ちっともそれに対応していない。と言うより全く関心がなさそうに見える。過去の遺物のような学習指導要項にしがみついて、それを遵守することにのみ心血を注いでいる。この状況、戦前の全国一律、修身教育の徹底とどこが違うのだろうか。日本だけが取り残されていく。日本人の歴史観が、世界の趨勢とかけ離れてしまったのはなぜなのか?国と教育関係者は真剣に考えて欲しい。

戦後から現在に至るまで国民に、現代史の歴史教育をきちんとしてこなかったのは、国家の意思でそうしてきたのであると思う。戦死者を英霊などと美化することをやめ、国家が無惨にも多くの国民を死に追いやったことを認め、謝罪するべきである。多くの兵士の死が戦いによるものより、餓死や病気による方が多かったという事実。いかに無謀な戦いをしたのかにしっかり向き合うべきである。それでも、個々の死の崇高さを損ねはしない。

歴史の中の日本、国際社会の中の日本と言う視点で見れば、太平洋戦争は、明らかに侵略戦争であり、日本人はアジアの人々に、多大な犠牲を強いた犯罪者である。日本人個々の悲しみに浸るのも良いが、その対極には、日本軍の犠牲になった大勢のアジアの人々がいることを忘れてはならないのである。実際マレーシアでは日本人に痛めつけられたという話を大分聞かされた(特に華僑と言われた中国人の犠牲者は多かったようだ)

日本人は、この点が極めて希薄であると感じるのは私だけなのだろうか。激戦地への慰霊がテレビでよく放映されるが、その光景を見るたびに、彼の国の人々の心情を思いやってしまう。「勝手に人の国に侵入し、戦死したのではないか。我が国の人々も、その巻き添えになってたくさん死んでいるんだぞ」と言う声が聞こえてくるようである。しかるに、その点に触れたものはあまり見かけない。

(注) 数年前ミャンマーの奥地を訪ねた時、そこで倒れた日本兵の墓に案内された。墓には線香の煙が上がり、現地の人が世話をしているようだった。

日本の教育は、効率のみを追求し、その内容たるや貧弱そのものである。狭い教室に40人以上の生徒が、サージンの缶詰のように詰め込まれている状況は、質の低さ以外の何物でもない。お上があって民がある。いつまで我々を愚民扱いするつもりなのだろうか。

お上にとって国民の権利意識が希薄な方が、何かと都合が良いに決まっている。こんな学校教育の現場で、子供の人権など存在するだろうか。私には、大人同様子供もないがしろにされているとしか思えない。「おい、こら。」は先生の常套句。声を荒らげて怒鳴る光景など、日常茶飯事。先生が子供を対等に扱わないところに、子供の人権意識など根付くはずはない。すべてはここから始まるのだから。ないがしろにされた子供が社会に出て、不平等、非民主主義、差別等に敏感であるはずがない。だから、日本社会は何も変わらない。

海外に出たら、日本大使館を訪ねてみると良い。横柄な態度、サービス精神のかけらもない対応ぶり。国民のために働くなどと言う意識は希薄だと感じる。あくまで「お上」なのである。だから、海外で困難に遭遇しても、決して日本大使館を当てにしてはならない。

阪神大震災の際、マレーシアに住む友人が、情報を得ようと日本大使館に何度も電話をしたが、電話には出てもらえなかったそうである。日本国のパスポートには「必要があれば、旅券保持者の保護をお願いする旨」が記されているが、自国の大使館からは保護が得られそうにない。国民はここでもないがしろにされている。

日本の構造はどこを見ても同じである。私が経験した限り、他国の大使館のサービスは、どれも心のこもった気持ちの良いものであった。こんなに住みにくい日本社会なのに、誰も黙して語らない。物言わぬ人々。これだって戦前とちっとも変わっていない状況だと思うのだが・・・。こんな絶望的な気分になった時は、タンザニアを旅するのが一番かもしれない。


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