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笑って終われるひと

インターハイも甲子園も中止になってしまった。
高校生のとき、そこにある毎日や学校が自分の世界のほぼすべてで、
その先に描いている夢は、わたしにとっては海外のような遠い夢だった。
いまになっては、それだけではないことも、無駄だと思っていたあらゆることがいつか自分を助ける糧になっていることも、もちろん分かっているけれど、あの高校生特有の「限られた」感じに戻りたくなったりもする。

甲子園の中止を報じるニュースの中で、ある高校球児が
「子供のころから、高校3年生までが追うことのできる限られた夢だから」
と言葉を少し詰まらせながら話しているのを見て、やっぱり泣いてしまった。

あらゆる学生スポーツで笑って終われるひとは少ない。
甲子園をめざすならば、甲子園優勝を果たさなくてはやはり悔しさを抱えていくのだろうし、多くのひとは、その甲子園に至ることなく、どこかで涙を流すのではないかと思う。

だから、笑って終われないかもしれないことを知っているけれど、
でも、1%でも0.01%でもそれ以下の確立でも可能性があるなら、その可能性に全部を懸けて、目の前のすべてに打ち込んでいく。
私も高校生のとき、とんでもない弱小校だったけれど、それでもなぜか夏のしんどい合宿のときとか、冬アップのために走っているときとか、もしかしたら次の大会は結構勝てるんじゃないか、とか、本当にもしかすると、全国とか夢じゃないのかも、とかそんな気持ちになることがあった。そんな気持ちは、練習試合ですぐに打ち砕かれるけれど。

そんな笑って終われるかも、というかすかな可能性と、そんな妄想すらも抱くことができないことの苦しさを、本当の意味で理解することは到底できず、どんな言葉もただの文字の羅列のようになってしまう。


ニュースの終わりに、高校生たちが自分たちの高校野球の完結をするために、なにかの大会を、という話をしていた。
あ、そっか、とそのときになって思った。
笑って終われなくても、「これが最後」という試合があった。
これに負けたら、もうこのメンバーでは、二度とすることができない、という試合が。

いまでもそのスポーツを見てるときだったり、寝る瞬間だったり、街中でそのスポーツが印字されたバックを持っている高校生を見たりすると、悔しさがこみ上げる瞬間があって、その場を逃げたしてのたうち回りたくなるし、あーもう生きていけない、と思ってしまうし、なんであのときもう一歩足出せなかったんだろうってぐるぐるしたりする。

でも、自分がいま生きていけているのも、その目の前をとにかくこなしてきた時間の積み重ねがあったからだと確かに言えて、試合に負けて次の日も目が腫れるほどがんがんにみんなで泣いたあのときの全力さがあったからだとなんとなく分かっている。


「これが最後」
そう思うだけで、よくわからないところから力が湧いてくる気がしたあの感覚を、人生で永遠に頭にこびりついて離れないような瞬間を、いまの高校生たちがどうか味わうことができますように。

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