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まったく偏見を持たないひと

伊坂幸太郎の小説に、まったく偏見を持たないひとが出てくる。
彼は、目の見えない人に出会っても、ひとつもそこに特別さや、悲愴さを見出さず、本当にただただ一人のにんげんとして接していく。

ある日、彼は、目の見えない友人と、バスに乗った時に、その友人に突然慈しみの気持ちでお金を渡してきたひとを、心の底から理解できず、なんで、と聞く。
(いまなら、ネットで検索したらすぐ出てきそうだけれど、いまはぼんやりと自分の中に残っている彼の記憶だけを頼りに書いていて、正しくないかもしれないことを注記しておく)

小学生のときに彼に出会って、私はこうありたい、と強く思った。

小学校のクラスには、ひとり、軽度の知的障害を持つ子がいて、その子のことをクラスのみんな、あまり良い扱いをしていなかった。
どう、接すればいいのか、みんな分かっていなかった。
どう、接すればいいのか、分からない、ということは、私たちはその子のことを、「ふつう」のひととは違う、と認識していたし、心のうちのどこかに、かわいそう、だったり、きもちわるい、という感情を抱えていた。

中学校のとき、通学路のなかで顔にあざのあるひとや、片腕のないひとを見かけるたびに、私は目をそらしていた。
そのひとの、あるがままのその姿を、彼のように受け入れなくては、と思いながら、どうしてもそこにある、いくつかの苦悩や、悲しみを勝手に想像し、簡単に、受け入れることができなかった。

大学に入ってできた友達に、韓国人の子がいた。その子のことを、私は当たり前のように、日本人の友人と分け隔てなく接していたけれど、誰かにその子の話をするときの形容詞はいつだって「韓国人の」友達だった。


最近、Twitterを中心に、ネット上で、
女性蔑視への疑念の声をよく目にした。

そのすべてに同意しながら、ほんとうに?と思う自分がいる。

女子校で学生生活の多くを過ごしてきたからか、
女性、というだけで、他者から否定や差別をされてきたような経験もなく、
女性専用車両に守られ、とにかく態度がでかいタイプの人間だったからか、
痴漢の経験もない。
ありがたいくらいの両親に恵まれ、
本や映画、それ以外のたくさんの文化に触れる機会があり、自分の進路は自分で決めることができ、いじわるな親戚に出会ったこともなく、
「女のくせに」と言われることも、ノーメイクで会社に行くことも咎められることもなく生きてきた。

自分に経験がないから、と女性蔑視、女性が性的搾取されていることに
目を向けないひとたちが、一番、女性の権威を落としている、
ということばを見かける度に、自分のことを指しているのか、と息が詰まる瞬間がある。
ネット上にぽつりぽつりと漏らされることばたちに、確かに私は寄り添おうとしているけれど、彼女たちと本当の意味での共有ができないのではないかと。


#BlackLivesMatter も同じような感情に襲われる。

日本にいて、黒人、の方だけでなく、外国のひとだと分かるひとを街中で見る度に、いまだに目で追ってしまう、自分がいる。
中国のひとが、日本語で話しているのに、
中国語だと思い込んで、何回も知り得る英語で聞き直したことがある。


世の中は、ネットの発展もあって、
ほんとうに信じられないくらい多様なひとがいて、
もはやそのすべてのひとの賛成を得られるようなものは
存在しないのではないかとずっと思っている。
そして、女性だから、違う人種だから、などとカテゴリー分けすることも
もはや難しくなってきている。

女性であることよりも、違う人種であることよりも、
目の前のひとは、ひとりのひとでしかない、
という事実しか確かではない。

「ふつう」は、わたしのものと、あなたのものは違うし、
そのことに自覚的にならなくてはいけない。


小学生のときに彼に出会って、私はこうありたい、と思ったけれど、そう思った時点で私はこうあれない、ということを実はずっと知っていた。
びっくりするくらい、私の中には偏見で溢れている。

けれど、彼、だったら、どう思うのか、といまでもなにかの偏見や差別に晒されているひとのことばを見る度に、考えている。


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