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【短編小説】 『ガーデニング』 (1)

ザッという音ともにバラの枝葉が地面に落ちた。私は恍惚としてその場に佇んだ。
バラの伸びた枝を十五センチ以上もバッサリ切ったのである。私はいつの日からか剪定というものに夢中になっていた。これまで庭のことなんてまったく気にもしてこなかったし、おばあちゃんが死んでからは一年に一回業者が手入れしてくれる以外は庭のことはほったらかしだった。放置し過ぎたせいで、玄関前にあったバラの枝は伸び切り、釣竿のように目の前にぶらっと垂れ下がり、手で避ける時にいちいちトゲがチクッと刺さって、いつも通る度に悲鳴をあげ、やっとのことで切ろうという決心がついたのである。切ろうと思ってもそれ用のハサミがなく、代わりにペーパークラフト用のハサミでバッサリ切った時の感触にこれまで味わったことのない心地良さを感じた。

私は京都の西山の麓の大原野という地域にある祖父母の家に住んでいた。両親は生まれて間もない頃にどちらも他界し、祖父母によって育てられたが、祖父母も今はこの世にはおらず、祖父母の邸宅は今は私のものになっていた。祖父母はこの邸宅を含めた全ての財産を私に相続すると生前話していて、祖父母の死後、親戚たちもユキちゃんが引き取ったらいいと言って、揉めることもなく、私の手中に祖父母の財産全てが収められた。

私はこの日、剪定をするだけのために早く起きて、剪定を済ませてから仕事場へ向かった。仕事場へ着くと、同僚のサリが産休と育休から明けて、何年かぶりに仕事場へ来ていた。

「ユキ、これ。」

ヨーロッパのどこかの国のおしゃれな街の写真がモノクロでプリントされた紙袋を私に差し出した。

「そんなんいいのに。ありがとう。」

私はそれをありがたく受け取ったが、サリと接するのが久しぶりすぎて他人と接するような変な心地がした。

「これから神戸から通うことになるん?」

サリは神戸の人と結婚し、神戸の山手の方に住んでいた。

「うん。言っても、二時間もかからないから。」

会社は京都のオフィスビルが立ち並ぶ烏丸御池の一角にあって、近くのビルに比べては小さくて古く、会社自体も昭和から続く、社長は代々世襲のこじんまりとした会社であった。


ミーティングが終わった後、久しぶりにサリと昼食を取った。

「ユキは相変わらず仕事が早いね。私やっぱり衰えてるわ。ブランクとか関係なく、衰えてる気がする。」

「疲れてるんでしょ?子ども育てながらは誰でもそうなるよ。」

サリは実際疲れ果てた顔をしていた。

「確かにそれはあるけど、やっぱり歳もあると思う。」

「マサキさん?大手で働いてはるんやったら、サリはもう家に居てたらいいんじゃないの?」とサリに言ったものの、私は正直それが正解なのかわからなかった。

「でも家にいれば、余計老化しそう。」

「大丈夫やろ。」と、とりあえずサリを宥めておいたが、サリの様子を見ていると、結婚願望もなく子供も欲しいと思わない自分の気持ちがより強化され、なんでみんなそうまでして結婚したがるのだろうと理解できなかった。けれどそんな自分がただ世間知らずなだけなのかもしれないという気もせずにはいられなかった。

この日はフレックスを利用していつもより一時間早く退社して、烏丸通り沿いに面する大型の書店に足を運んだ。店に入ると、真っ先に園芸コーナーへと向かい、『ガーデニング入門』と表紙に書かれた手に取るだけでも初心者と思われて恥ずかしいような分厚い本を手に取った。剪定をやるからにはちゃんとやろうと思い、参考とする本を探しに来たのである。それ以外にも手当たり次第ガーデニングに関する本を読み漁ったが、どれも同じようなことを書いていて、それだったらもう自分の基準で選ぼうと、なんとなく男の人に教わるのは嫌だったから、女性が著者の本に絞った。苦労した末、二冊を選び、会計に並んだ。会計に並んでいる間、明日の朝の剪定のシュミレーションを頭の中でしていたらだんだん楽しくなってきて、思わずマスクの下でニヤけてしまった。こんなことでニヤけるなんて自分もどうかしてるなと思うと、さらに可笑しくなってニヤけが止まらなくなった。

その時、後ろから突然私の右肩を誰かが叩いた。私はその瞬間「わっ」という声が漏れ出て、そんな声を出した恥ずかしさで、肩を叩いた相手が誰であっても、振り返るのに時間がかかった。しばらくして振り返ると、そこには縫田が立っていた。こんなやつのために私は大変な思いをしたのかと思うと、腹立たしくなった。一方で、縫田とは大学の卒業式以来ずっと会っていなかったので懐かしさも少しあった。

「ユキやんな、焦ったあ。」

「ヌイか、びっくりしたわ。」

ヌイというチャーミングな愛称とは反対に、縫田はがっしりとした体つきをしていて、可愛らしい性格でもなかった。みんながそう呼んでいたから自分もそう呼ぶだけで、この男に相応しい愛称ではないと思っていた。

「ユキって京都いてたんや。他の人に聞いたらユキは東京行ったって聞いたから。それとも今帰ってきてるだけ?」

そんなデタラメがどうやって広まったのか、それより人のことをなぜそんなに噂したがるのか、自分のことをもっと心配すればいいのにと私は誰だかもわからない相手にそう言ってやりたかった。

「誰が言ってたん?私ずっと京都やで。」

「あ、ほんまに?みんなそう言ってたから。」

「そうなんや。」

「今何してるん?」

「不動産会社で働いてる。」

「この辺なん?」

「そう。」

「俺もこの辺やで。六角堂の近くのアキタビルってわかる?」

「なんとなくわかる。そこで働いてんの?」

「うん。」

よく今まで会わなくて済んだと、これまでの幸運と、今遭遇してしまったという災難を同時に味わうことになった。

「何の仕事?」

「WEBデザイナー」

縫田は少しドヤ顔で言ったように思えた。

「へえ、大変そう。」

「でも、しょうもない仕事しかさせてもらえへんから、もうやめようと思ってる。」

「そうなんや。」

「ユキはもう結婚したん?」

「してない。するつもりもないかな。」

聞いておきながら、縫田はそれほど関心を寄せていなかった。

「その本何?」

私は不意打ちを喰らった。本について触れられるとは思っていなかった。縫田にガーデニングのことを話す気にはなれず、庭の手入れを業者に頼むのももったない気がして、これから自分でしようかなと思って、と縫田が私の庭へ訪れたことがあるのを良いことにそう誤魔化した。

「ユキの家の庭広いしな。」

縫田はそう言うと、ふと何かを悟り、明らかに気まずい顔をした。私にはその理由がはっきりと分かった。

サークルのあるイベントが終わった時の打ち上げで、縫田は泥酔し、一人で帰れる状態ではなかったために、その場にいた一人暮らしの人間だけが選抜され、その中でジャンケンに負けた人間が縫田を家に連れ帰るという不条理なゲームが行われた。私は女だからどうにかなるだろうと、酔っていた勢いもあってそれに参加して、負けると、じゃあユキよろしく、と言われ、私は冗談やろ?とすっかり酔いが覚めてしまって本気で確かめると、別にそいつ何もしよらんって、と本当にその役を担わされた。周りにいた女子たちは当然黙っておらず、「そんなんユキ可哀想やで」と猛抗議し、正義感の強かった後輩のニノちゃんが私の家まで付いてきてくれようとした。ニノちゃんは一人暮らしではあったが、明日の一限に大事な試験があり、勉強のための物を何も持ってきていないらしく、私はそれはダメだと思い、ニノちゃんは大丈夫だと言い張ったが、ニノちゃんを説得して家へ帰ってもらった。縫田は電車の中で、俯きながら「ウンウン」と唸っていて、私は周りの人からの視線に耐え切れないほどの恥ずかしさを感じた。

ジャンケンの一悶着があったせいで、電車には乗れたものの、着いた駅からさらにバスに乗らなければいけなかったのに、もう最終のバスはとっくに行ってしまっていた。仕方なく街灯も少ない周りには田んぼしかない道を縫田の肩を支えながら、よろけながらも歩いていった。

途中竹林が生い茂った道をどうしても通らなければ帰ることができず、そこを通るときは流石に縫田の肩を揺さぶって、意識を取り戻させ、「ここどこや。」と寝ぼけて頓狂な顔をしている縫田に「お願いやから、この道を通るときだけは起きてて」と懇願し、縫田も状況を察知したのか、意識がはっきりしてきたようだった。

「こんな山奥に住んでんの?ユキって狼の子かなんか?」

私は相手にする気が起こらなかった。「ほらあれ見て」と言ってバカを後ろへ振り向かせた隙に、このまま走り去って山に一人取り残してやろうかとも思った。縫田は流石につまらないことを言ったと悟ったのか、それ以来何も喋りかけてくることはなかった。

やっとのことで家に着き、縫田はソファに座った。縫田は完全に酔いから覚めていた。

私は起こしたことをこの時になって後悔した。縫田もソファに座って、何やらソワソワしていた。

「ユキの家めちゃでかいな。こんなとこに一人で住んでんの?怖くないん?」

「セキュリティはちゃんとしてあるし、家の中にいてたら全然怖くない。」

「まじか。強いな。」

私は縫田をどこに寝かすかを考えた。布団は祖父母のものがあったが、ずっと押し入れの中で、埃をかぶっているに違いなかった。自分のベッドに寝かすのは避けたかったが、客人をソファで寝かせるわけにもいかず、明日シーツを洗う前提で、縫田にベッドで寝るように言った。私はお風呂に入ったが、縫田がそのあいだタンスの中の下着などを物色していないか心配で気が気でなかった。縫田ならしかねないと私は慌ててシャワーを浴びて浴室を出て、リビングへ戻ると、縫田はソファで熟睡していた。それなら仕方ないと好都合に思い、おばあちゃんが昔着ていた薄い羽織りものをかけてやって、そのまま寝かせておき、私は自分の寝室へ向かった。

ふと酒臭さに目が覚めた。歯磨きをしてもまだ臭いが残っているのかと嫌になったが、まぶたを開き切ると、縫田が隣で荒い寝息を立てながら寝ていた。私はとたんに悲鳴をあげ、すぐさま縫田をベッドから右足一つで蹴り落とした。「きもいんじゃあ」縫田はその時寝たふりをしていたのか、本当に寝ていたのかわからなかったが、ベッドの下から「イッタああ」と喚いていた。私は案外冷静になることができて、縫田に問い正した。

「何してたん。」

縫田は「ごめん。」とただ一言謝った。

「だから何してたんって。」

「自分の家やと思ってベッドに入っただけやん。」

「嘘や。」私はパジャマの前のボタンをいつも一番上を開けて寝ていたが、二つ目までは開けることはなかった。すぐさま寝室から追い出し、自分も鍵を閉めていなかったのが悪いとも思い、今度は鍵をしっかりかけた。

 翌朝、リビングへ行くと、縫田の姿はなかった。「帰るわ。ごめん。ありがとう。」と一文ごとに改行された置き手紙がソファの前のテーブルの上に置かれていた。

 それ以来縫田との関係はかなり気まずかった。私は縫田のことよりもジャンケンを提案したサークルの人間たちと会いたくなく、元々サークルへはあまり行けていなかったが、ますます行く機会が減った。卒業式の日、サークル一同で写真を撮ったあと、縫田が歩み寄ってきて、「色々すまんかった。」と目を合わせることなく、相当それを言おうと前日から決めていたかのように勇気を奮い立たせて言ってきた。私は「いいよ」と特に感情を込めることもなく返事をした。

 縫田はその時と特に変わりはなかったが、少しは社会人らしい感じはした。私が逆に何も変わっていないような気がして嫌になるくらいだった。「じゃあまた。」と言って去ろうとすると、縫田は「また飯でも行こな。」と言ってきた。私は「うん。」と小さく頷き、店を出た。外へ出ると、空には棚田のような段を帯びた雲が一面に広がっていて、秋を近くに感じた。


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