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「模範的社会人」になるための自己啓発読書会 第四回岸見一郎「嫌われる勇気」

1.導入

✴︎文字起こし:レガスピ  章分け:キュアロランバルト

(読書会は5/26に実施)

参加者
えすてる(@estelle_ph2)
織沢実(@orisawa30321)
キュアロランバルト(@welcome_to_neet)
ブロードウェイ・ブギウギ(@B_boogie_woogie)
レガスピ(@mimilegazpi)

キュ(アロランバルト) この本すごく啓発して開いてくる感じがあって、読まれる理由がよくわかりました。まずアドラーはフロイト批判的な文脈から、自由意志の目的論的な転換をしていくんですけど、アドラーの自由意志を完全に認める理論って自己責任論を加速させるものでしかないと思うんですよね。「君が置かれてる状況は仕方ないから、そこから頑張ろうよ」って話じゃないですか。それって社会に都合がいい人間をつくりだすだけで、ドゥルーズ的な革命をいっさい排除するものとしてつくられていて、そこがムカつきました。あと、アドラーのフロイト批判としての目的論というのは、当時はわりとあったんだろうけど、のちのラカンやドゥルーズなんかのフロイトの批判的継承って面から見れば、かなり浅はかだと思いました。これとは別に読んだ『アドラー心理学入門』(ベスト新書、1999)で、岸見はアドラーが教育に関心があったって話を書いているのに、この自己啓発本ではそういう文脈を排除しているんですよね。だから確信犯的に自己啓発に落とし込んでいるところがあって、それが僕としては全然納得がいかなかったです。

レガ(スピ) 僕も「ふざけんなよ」って気分にはなりましたね。僕自身アトピー性皮膚炎で自己肯定感が低いんですけど、目の前にこんなこと言ってくる人間がいたらぶん殴りたくなります。キュアさんも言ったように、これってアドラー心理学じゃなくて岸見のアドラー解釈ですよね。ソクラテスとプラトンとアドラーを結びつけるみたいな。そこにバイアスがかかりすぎているというのと、参考文献を明記してほしかったですね。一切なかったので…

キュ 新書のほうはちゃんと書いてあるんですが、こっちはニューアカみたいなやりかたで文脈をいっさい排除している。一応アドラーの著書も買ったんですけど、国内で手に入るアドラーの著作はほとんど岸見一郎が訳している。だから原文を読まないかぎりブラックボックスというか、やりかたがずるい。

レガ 一部分では「たしかに」と思うところはあったんですけど、ちょっと距離を置きたいとは思いました。

ブギ(ウギ) この本自体はあきらかに古賀(共著者)が悪いと思うんですよ。しょうもない対話篇構成にして、これがソクラテスとつながってるんだみたいに権威づけしてて、あんまり哲学を舐めるなよと思いました。内容としても、ツイッターでおじさんが垂れてる人生訓みたいでムカついてきて…腑に落ちなかったのは、この倫理学的な規範を支えている体系が見えてこないところです。でも言っていることとしてはまともというか、自己啓発っぽい行き過ぎたところもあるんですが、「そんなに人のこと気にしなくていいんじゃない?」みたいな。そういう意味では岸見や古賀とは仲良くなれなさそうだけどアドラーとは仲良くなれそうと思いました。

えす(てる) この本は幸せになりたい人や人間関係に悩みがある人には有効な処方箋として機能するとは思いますけど、僕としてはそこに魅力を感じないというか。大前提になっている「目的に沿って生きる」、その幸福が他者貢献にある、というのに全部集約されているのが僕は馴染めなかった。でも枝葉をみていったときに、患者や悩みをもつ人に対してのアプローチについては共感できるところがあったという感じです。

キュ 新書によれば、アドラーはフロイトとはマルクス主義をどうするかということで揉めて仲違いしたところもあるらしいです。戦後アドラーは社会主義に関心を戻すんですが、ソ連に絶望して教育にシフトする。教育や育児の問題にカウンセリングの文脈から取り組む点は重要じゃないですか。むかしヒッチハイクを軽くしたときに乗せてもらった人がサドベリースクールで働いてた人なんですが、サドベリースクールは教員が一方的に教えるんじゃなくて、子供達を尊重し、子供達からも教わるというやりかたで、学校のルールも教員と子供達の多数決や話し合いで決める。その人はサドベリースクールに感化されて、恋愛の話をしてたんですけど、それとアドラーの議論は似ている、というかサドベリースクールの根底にアドラーがあるんじゃないかと思うくらいそういうものを感じました。教育論や対人関係論を自己啓発にしちゃうと、他者との関係のはずが自分を変えていくプロセスになってしまう。この二つは近いようでずれていると感じて、そこがしっくりこなかったんですよね。

ブギ 教師感がすごくあるんですよね。僕が学部の頃にいた教員養成大学では現役の教師の講義が多かったんですが、その講釈を垂れられてる感じがあったんですよね。別に学としてなにかを積み上げてないくせに、こうしたほうがいいよ、人間関係はこうあるべきだよ、幸せってこうだよ、みたいに垂れるのが本当に腹が立って。お前らは…よくないことを言いかけました。

キュ この自己啓発本の対話篇での哲人と青年の関係って、文面では「友人」とは言ってますけど、明らかに啓蒙の、偏りのある関係じゃないですか。発話内容と形式が矛盾してるんですよ。形式が言表を裏切っている。そこがこの本の一番の矛盾点ですよね。

レガ たしかにどう考えても教える側と教わる側が強者と弱者の関係にありますよね。それに引っかかりを感じました。対話って相互に発言どうしを噛み合わせて弁証法的に発展していくものなのに、その過程がいっさいなかったというのが…

ブギ 対話篇はソクラテス以上の智者はいないって言われたからいいんですよ。この哲人はそんな智者なのかって話で。ソクラテスだからあるていど何を言っても信憑性があるわけで、この対話篇は対話に見せかけた別のなにかですよね。あとソクラテスの話だと、フロイトの原因論は、デルフィのアポロン神殿に刻まれた「汝自身を知れ」につながると思っていて、むしろフロイトに背くことがソクラテスにつながるっていうのが全然理解できなくて…岸見にとってアドラーのどこが古代哲学とつながっているのか気になりますね。

キュ 岸見も育児を始めてからアドラーを読み始めたと言ってるし、完全に個人的なパラノイアでしかないと思いますよ。フロイトや、のちの構造主義もそうですが、自分が何に縛られ、何によって自由意志が阻害されているか知ることが一番自由に近づく方法じゃないですか。それをいっさい放棄してマインドフルな問題に転化するのって全然自由じゃないですよね。
 あとやっぱり、アドラー的な話って結局心の持ちようじゃないですか。実際自由意志の問題って心の問題どころじゃないし、別にそれで哲学的な自由意志を獲得しているわけじゃない。そこを考えたら人間ってもっと弱いし、原因論に逃げたいときは逃げて、成功したときは目的論を都合よく持ち出すくらいがよくないですか?アドラーとしてはすべての責任を主体が引き受けるわけだけど、人間ってそんなに強くなれなくない?と思いました。アドラーは強すぎる。マッチョですよね。社会人はこれを読んで自分の置かれた状況を了解して働くことができると思うんですけど、それでいいのかという。けっきょく資本主義リアリズムで言われるような、うつ病患者に薬をあげて、でも根本的なうつ病の原因を解決しないのとまったく同じで、疎外化することで派生的な問題をいっさい捨てている。精神科と同じように、ふたたび社会に戻してあげるってだけで、なぜ社会からあぶれたのかというところは一切触れられない。そこはめちゃくちゃムカつきますよね。けっきょくこれを読んでもいい意味でなにも変わらないんですよ。なにも変わらない状態にするって本じゃないですか。だから売れる理由はよくわかりますけど、すごく無責任だと思います。

2.アドラー心理学とメンヘラ

ブギ アドラー心理学特有の、ちょっと厳しいことを言って、でもこれは幸せな道なんだよ、もっと自分を強くもって前を向こうよ、みたいなのって、めちゃくちゃメンヘラに好かれそうだなと思いました。メンヘラってこういう無責任な優しさをずっと求めてるので。これはブロンですからね。こういう男が一番メンヘラに好かれるし、一番メンヘラを傷つけるんですよ。

キュ 対話篇ではソクラテスがつねに他者と出会うわけですけど、この本に関してはいっさい他者がなくて、ただただ自己を拡大させていく。それってすごく啓蒙主義的というか、ニック・ランドが「カント、資本、近親相姦の禁止」で批判していたやりかただと思いますね。

織沢(実) 哲人は青年が怒りに任せて殴りかかったら死んじゃいそうだけどソクラテスなら反撃できそう。

ブギ 対話篇の中でみんながめちゃめちゃなこと言われても殴りかからないのって、ソクラテスがムキムキだからですよね。やり返されるからやらないだけで。だからこの青年はこんな哲人のところに行ってナヨナヨ自分の意見を言うんじゃなくて、筋トレして気に入らないやつを全員グーでぶん殴って生きるべきなんですよ。

キュ この青年は典型的ニヒリストとしてキャラクタライズされていますよね。そういうニヒリズムが僕らにも多少はあるってところを攻めてるとは思うんですけど、ニヒリストで悪いことってそんなになくないですか?彼は弱いニヒリストなんですよ。だからニーチェのように何にも拠らない存在にはなれなくて、なにかに救われたい、感傷マゾ的な他者救済を求めている。彼もメンヘラなんですよ。だからこそ哲人の言葉に惹かれてしまう。

えす 典型的なメンヘラだし、本書では噛ませ役じゃないですか。そこに対話を期待するのは自己啓発の仕組みとして間違ってるのかなって、それも含めて面白さを感じたんですが…それと、学術的に体系立てられたものというよりは、アドラー自身がカウンセリングを通じた実践的な側面に基づいているとありますが、だからその体系づけるものは何なのか期待するのも間違っているのかなと思ったりしました。実際はどうなんですかね…

ブギ 少なくともフロイトやラカンは実践と理論を行き来したことで、理論一辺倒だった哲学に実践の可能性を広げたという意味では精神分析には大きな功績があるとは思うんですけど、(アドラーは)そこから離れたせいで実践しかない。カントっぽさ、ニーチェっぽさ、という「ぽさ」ばかり扱って、かれらの言説の一番最後に出てくるような行動にフィーチャーしたものだけ取り出されているというのは…これがアドラー自身によるものなのか、岸見・古賀の加工なのかわからないですが、読んでる感じは理論的なものはあまりない気がしますね。

えす カウンセリングでみんなが欲しがっていた「ここにいていいんだ」という所属感を前提に、そこから始まって落ち度がないようにつくられた学問、処方箋なんだと思うんですけど…

3.弱く生きる

キュ 結局みんなが欲しがることを言ってるだけなんですよね。青年もそうで、この言葉を言ってほしいというタイミングで哲人がそれを言ってあげるわけだけど、それってメンヘラをあつかうのがただ上手い人なんですよね。確信犯的に弱い人たちの前で強ぶることで、より安定した基盤を与えられているような気になると思うんですよ。この生き方を徹底したとして本当に幸せになれるのかって思います。もっと人は弱いし、すべてが自分の自由意志で動いていると思いたくもないし、僕は最近弱く生きることをずっと考えているので、こういう強い生き方っていうのは確かに弱い人たちには力になるとは思うんですけど、能動的に弱く生きることに対してはまったく逆効果だと思うんですよ。ただ弱い人間に強い思想を与えることとは違うと思う。
 めっちゃ話とんでいいですか?最近『終末のワルキューレ』を読んでめっちゃ感化されました。言ってしまえばただの格闘漫画なんですが、この漫画のテーマ性を見出したときに感動したんです。(以下ネタバレ注意)まず神々が1000年に一度会議を開いて、人類を滅ぼすべきか否かという話をするんですが、そこに半人半神のワルキューレが乗り込んできて、「人間vs神のタイマンを10戦やって先に6勝したほうが勝ち」ってゲームを提案して戦い(ラグナロク)が始まるんですよ。ワルキューレは歴史上の人物を呼び出せるので、それと神を戦わせる。基本的に『終末』は人間と神の中で強くなりすぎて退屈した者同士が、はじめて同等の人間と戦うことで両方とも贖われていくというのが基本的な構成なんですけど、第一回戦は呂布奉先とトールで、第二回戦はアダムとゼウスなんです。アダムは負けるんですけど、殴り合いの末ゼウスは座り込んで勝つ一方で、アダムは立ったまま死ぬんですよ。それで我慢比べであれば勝っていたってことで、人間側が湧き上がるんですね。その次が巌流島の戦いで死んだ佐々木小次郎。佐々木は人生において一度も勝ったことがない圧倒的敗者として出てくるんです。対するは人生において負けたことがないポセイドン。最終的に佐々木が人生初の勝利を収めるんですが、続く第4回戦、神側のヘラクレスは人間にルーツがあるゆえ、人間をすべて愛しているというスタンスなんですが、ワルキューレはそこに人間の中でもっとも愚かなジャック・ザ・リッパーをぶつけるんですよ。そこで二人が戦ううちに、ヘラクレスがジャックに愛を感じていくんですね、卑怯な戦い方をするジャックに対してヘラクレスは正々堂々と戦うので毎回はめられるんです。ヘラクレスはそれでも愚直に戦い続けて、ジャックはズルして勝つんですが、最後に(ヘラクレスがジャックを)抱きしめながら死んでいくんです。
(今のところ)終末のワルキューレの勝者って、佐々木のような敗者やジャックのような悪人だったり、全員弱い人間なんですよ。この作品のすごいところは人間の弱さが戦いによって贖われていくところです。それがめっちゃいいなと思って。弱さが強さに反転するというか。『嫌われる勇気』みたいに強く生きたところで神には負けるので、僕らにできることは神よりもひたすら弱い人間なんじゃないか、と考えているところです。めっちゃ脱線してしまった。

ブギ 神を知りつつ神にはなれない悲惨さが人間の偉大さですからね。

キュ 神に近づこうとした人間は神にはなれない。人間である理由は弱いことだし、そういうものが神をも超えるものになる時が来る、というのが『終末』のテーマ性なのかなと。

ブギ あまりに愚かなプロメテウスは天上の火を盗んで地上に届けたせいで、岩に磔にされて肝臓をついばまれるわけですが、そこにこそ輝きがあるわけですよ。

キュ 弱さが一瞬のきらめきになる瞬間がすごい好きで。刃牙に出てくる寂海王は海王の中でも一番弱いんですが、それが中国4000年の集大成といわれた烈海王と戦う話がある。最初寂海王はいろんなズルをするんですけど勝てないんですね。最終的に寂海王は足を抱えて頭を守る護身のポーズをとることでひたすら守りに徹して、作中で唯一烈海王の技をすべて受けるんですよ。寂海王の強さは、その非暴力・不服従に集約されるんです。最後顔面殴られたあとも相手の手をつかんだまま気絶するんですが、寂海王の強さはひたすら弱いことにあって、僕は寂海王がめっちゃ好きなんですよ。

ブギ 僕もメンヘラの弱さが本当に大好きで。メンヘラの女の子って一番かわいいので。メンヘラの人たちのバイブルってフロイトだったんですよ。でもアドラーのせいで、そっちの方が気持ちいいからそっちに流れてるんですよね。こういうものに感化されて彼女たちの光り輝く弱さがどんどん削ぎ落とされていくのが僕は悲しい。

キュ 死にたい、死にたいって言って死なないところに一番価値がありますよね。死に向かうには力が必要なんですよ。僕は双極性障害なんですけど、躁鬱の人って鬱じゃなくて躁状態のときに自殺率が一番高いんですよ。全能感から自分がなんでもできるって気持ちになれるので。その力をもったときに人は死ねる。だから死に向かうにはかなりの力が必要で、そういうことってわれわれにはできないし、かといって善く生きることもできない。アドラー的にはそういう瀬戸際で生きることをすべて意味なしとするわけですが。対人関係の悩みから抜け出したいとか、承認欲求を捨てたいとか、みんなそうだと思うんですけど、そこがなくなったら人間じゃなくない?と思います。

4.アドラー心理学は新自由主義か?

ブギ コジェーヴ、ヘーゲルの人間のはじまりかたって承認のための闘争から始まるので、哲学的にもアドラーの議論は承認を捨て去って無媒介の状態に戻れ、動物になれ、ということになるので、逆進的ですよね。

レガ 青年は哲人を論破しようとするじゃないですか。でも哲人に言いくるめられてしまう。最近読んでいるハルプリンの『聖フーコー』に、ヘテロセクシャルからホモセクシャルに対する言説がどうはたらくのか考察する章があります。そこで言われているのは、いちいちヘテロ側が言ってくる言説に反駁するんじゃなくて、その言説が社会でどう機能しているか、その言説の全体的な布置、効果を見きわめるのが大事だってことなんですね。アドラー心理学に対してなにを言っても向こうから「それは君の意思の力が足りないからだよ」みたいに言い返されると思うんですよ。だから僕たちがアドラー心理学に対してできる反撃は、どうこの言説が機能しているか見きわめることなんですよね。
 p.229にスローターハウス5の孫引き(「神よ、願わくば…」)が出てきますが、同じ一節を宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』のモノグラフに挙げています。『ゼロ想』は90年代からゼロ年代にかけてバトルロワイヤル化した社会で、若者たちは決断するしかなくなっているという、要は「決断主義」を主張する本なんですが、アドラーにも「決断主義」的なところがある。意思の力を力説してなんでも主体的にふるまえると言っていて、それってやっぱり新自由主義と親和性が高いんですよね。実際宇野も新自由主義を肯定しているので。アドラー心理学からしてみればフェミニズムは無効化されてしまう。p.101で「私憤(私的な怒り)と公憤(公的な怒り)を分けろ」と言ってますが、ウーマンリブの「personal is political」という標語のような、公と私を結びつける回路を切断しにかかっているのが非常にずるいと思いました。

キュ 他の箇所でも、怒りをやめてしっかり対話して人に聞かせようと言ってますが、これってトーンポリシングじゃないですか。ネグリは革命の要因として「怒り」を挙げてますが、それを「ちゃんと言えば人は聞いてくれる」と言って排除するのって現状維持でしかないし、それこそマルコムXやBLMの力をいっさい無視している。これは今存在する社会をひたすら維持するための本でしかない。
 僕が早稲田の学生会館で座り込みをした前日に「座り込みは迷惑なんでやめてください」ってDMが来たんですけど、デモって人に迷惑をかけないと意味ないじゃないですか。原発後の運動が迷惑をかけずにデモをしようとして失敗したってことを外山恒一は批判してますが、デモは根源的に人に迷惑をかけるものだし、社会を変えるには、自分たちの主張を呑まないと迷惑がかかるってくらい自分たちが怒っているということを示さなきゃいけない。なのに迷惑はだめだというのは、なんら現状維持でしかないし、そこで対話がどうとか、ひたすら持続的な世界観で持続的にそのままであることを肯定するロジックになりかねないと思いましたね。

ブギ 「これがどういうふうに機能するか」というので思ったんですが、(アドラーは)すごくフロイトを遠ざけるじゃないですか。この人の中でこの語りがどう機能しているか考えたら、フロイトをあまりに遠ざけるので、何をそんなに隠したがっているんだろうというのは疑問なんですよね。フロイトを嫌うことで彼に何の利益があるのか。それがブラックボックスかつ不気味で、そこを知りたいと思いました。ちょっと精神分析的な言説ですが、そこを理解することで自己啓発の根元が見えてくると思います。
 あとこの中にあったエピソードですごいなと思ったのは、第三章の最後のページなんですが…哲人のお父さんがめっちゃ暴力ふるう人でそれがいやだったけど、今では介護して「ありがとう」という言葉を聞けてよかった、と美談みたいに語っていますが、これってとんでもない復讐じゃないですか。自分の力がなければいけない人かつ自分を苦しめていた人に対して優しくするって、むこうからしたらすごくいたたまれないですよね。そこからあまつさえ「ありがとう」なんて言葉を引き出して……これは恐ろしい復讐ですよ。そういうのを抱えてアドラーや岸見は「父」に対するもっとも残忍な復讐としてこういうことを言っているのかもしれないと思うと、すごく怖くなりました。

キュ 新書で読んだんですが、これって岸見の実体験らしいですね。彼の父親もそういう人で、母に先立たれた岸見がお父さんにカレーをつくってあげたら、食べて一言「もう二度と作るな」と言われたらしいです。岸見は当時まずいって意味だと解釈したんですが、のちにあれは学生だから勉学に専念しろってことだったんじゃないか、と言って、父の愛を知ったって言うんですけど。そんなものなの?みたいな。アドラー心理学的には結局あらゆる記号が自分の都合のいいように組み替えられるじゃないですか。それって本当は人と向き合ってないんじゃないか。アドラー心理学は「適切な人との向き合い方」を提示しているわけですけど、アドラー心理学を徹底的に実践した末に行き着くのって、人といっさい向き合わない人であって、他者をいっさい廃した、それこそニック・ランドの批判するカント主義的な、他者をすべて自己化するという問題に近いことに、すくなくとも岸見はなってると思うんですよ。それで俺は幸せだからみたいな…それはただの幻想に生きろってことでしかないのかな、と。

えす 一番釈然としなかったのが、共同体感覚を得られるもののひとつに他者信頼を挙げてるじゃないですか。他者信頼があるからこそ自分と他人のタスク分けができると書いてあったんですけど、本当に他者を信頼する人って自分のタスクをも他者に預けられる力があると思ってて、そこが釈然としなかったというか。結局それって他者を信じてないからこそ自分でやるしかないよね、みたいな、能動的ニヒリズムの中でいかに強く生きて幸福感を得るか、みたいな感じを本書で受けましたね。

キュ アドラー=哲人も根源的にニヒリストで、なんにも価値がないと思っているから、自分を改革することで価値を産出できるという話だし、真の幸福が自分の意識から生まれるというのは、ほんとうの、幸福という言葉で言い表せないような幸福みたいな存在の可能性を排除していて、ある種ニヒリズムを自己完結させることで意識的な転換をしているだけで、根本的にはただのニヒルなんじゃないかという。

ブギ それこそ神経症や精神病の人がよくやる、自分の回路の中に閉じこもるっていうのをずっとやってますよね。それで一番うまくいってるから、もうその欲望の回路を別の回路に移す必要がない。ラカンの症例かなんかで有名なものに、精神分析に分析主体が来て、「私はこの症状をどうにかしたいんです」と言うんですが、診断が始まって、核心的なことを言いそうになると「ちょっと用事があるんです」と言って逃げ出すというのがある。つまりこの、別のものに自分がしたくないものを転化させて逃げていく様子って、この本でも言ってましたが、この人たちはそれをやってませんか?という。

レガ p.159に青年が哲人を批判して「あなたはアナーキストだ」と言う箇所があるんですが、僕はアナーキストでもなんでもないと思うんですよ。

キュ アナーキズムは無秩序じゃないですからね。カオスの根底にある秩序を呼び戻そうというやりかたですから。それこそタスク分けってアナーキズムから一番離れたものだし、そこはもっと流動的で、自他の区別がつかないものじゃないですか。

レガ アナーキズムは自己完結したら絶対にあかん思想なんですよね。アドラーみたいに自分の殻に閉じこもってしまうと、連帯をつくって数で訴えるということが、「その怒りはプライベートな怒りでしょ」で丸め込まれる。やはりトーンポリシングですよね。

ブギ 生まれたときから主体だ、という言い方が疑問ですね。そこがすべての間違いな気がします。ラカンにしてみれば、投げられた糸車こそが主体なわけで、つまり他者へと自分を投げ込む動きがなければ、主体を生きようとする輝きが失われてしまうわけで、そこをすごく勘違いしてるなとずっと思っていやでしたね。

5.他者と出会う

キュ 岸見は「個人心理学」というラベリングはアドラーの思想に合わないと言いますが、個人心理学という名前自体、個人(in-dividual)は分割できないもので、なににも依拠せず独立した存在みたいな感じじゃないですか。彼がそう思うほどアドラーの思想ってindividualなものじゃない?と思いました。怒りのない社会って他者のいない社会なんですよ。人を怒らせるときって、いつ怒るかってわからないじゃないですか。怒りがない社会って自分の予想できるものでしかないと思うんです。怒りは他者として怒られるわけですが、その他者と自己の関係をいっさい排除した独立した個人どうしの関係って、むしろ逃げてないですか?

ブギ ひとつひとつを光のもとに秩序づけられるはずだ、という考え方がまさに近代的で、せっかくフロイトが発見した無意識=他なるものから目をそむけている。だからフロイトから離れて逆進的なんですよね。

キュ 自分の中の他者を避けるという問題と一致してますね。けっきょくフロイトを批判するならフロイトの言説の中にもぐりこまなきゃいけない。ラカンやドゥルーズもそうですが、フロイトの言説に降りていくことでその中から脱構築して批判していくわけで…ゼロベースで繰り出すのは本当に傲慢だし、それがアドラー心理学の言表内容とそういう根源ってものがつながってるんでしょうね。

レガ 最近の動きかわからないですけど、ここでもソクラテスやプラトンが挙げられるように、20世紀までの思想的潮流をすっ飛ばして、実践の哲学みたいなふうに、哲学を人生論に役立てようみたいな、実用書とか自己啓発本にシフトしていった動きがやっぱりあって…

キュ これは哲学でも精神分析でも心理学でもないじゃないですか。ただみんなわかっていることを権威をもって言ってるだけなんですよ。みんなそう生きられたらいいなってものを権威を持って行ってるだけ、欲しいものを与えてるだけなんですよ。

えす 社会のこととかまったく加味してないですよね。他者のことはどうでもいいから自己の中に閉じこもって自分の幸せだけを追求しよう、社会がどうなろうと私は私の最善を尽くしてるんだから関係ない、って言説なので、みなさんが反感をもつ理由はわかります。キーワードである「普通であることの勇気」はたしかに重要ですが、メンヘラや希死念慮を持つ人間というのは底を知っているからこそ尖ってくる、つまり研ぎ澄まさた感性が一種の表現となってあらわれていくわけで、そこに人間としての輝きがあると思うんです。それを無視して自分の幸福だけを一般化して追求していく姿勢は人間の本来の輝きを無視してるし……アドラー心理学を適用するとまず文学の大半は失われると思います。

キュ それこそ伊藤計劃の『ハーモニー』じゃないですけど、全員がアドラー心理学を実践した世界って、全員がひとつの脳、自分の中の世界に閉じこもってるだけで、そのなかでも連結するネットワークが存在するみたいになるわけじゃないですか。完全にこれを敷衍させれば、反出生主義的なディストピアというか、だれも苦しまない、だれも秀でない、だれも劣等感を抱かない社会、自分がすべてな社会、ひとつの肉体的な牢獄に閉じ込められた個人が並列されたような社会ができるだけですよね。

レガ 僕はエヴァの最終回のシンジくんみたいだと思うんですよ。「僕はここにいていいんだ!」って主張するけど、でもセカンドインパクトで世界は滅んでるし、親父はクソだし、オカンはデカいロボットになってるし……って感じで。でもあの最終回だけ見るといい感じに終わってるんですよね。あの気持ち悪さですよ。だから僕としてはアドラー心理学ってセカイ系なんですよね。

キュ アドラー心理学を最大限実践するには全員がそうならないといけない。個人的にそうなったとしても、その人はただ嫌われるだけだから、全員がそうならないと安定した社会にならない。本当に徹底させるなら全員がこのソフトウェアの中で生きていかないと意味がない。アドラーは「ではあなたが一番先にやればいい」と言いますけど、僕がさきにやって何が変わるの?という。アドラーのロジックでは他人を変えないから、僕が実践して全員がアドラー的存在になるかといったら全然そうはならないし……結局すべてが個人に回収されていく個人心理学で。岸見一郎の決定的な誤読は、アドラー心理学は個人心理学ではないと言っていることです。

レガ 個人があって、その個人の欲望を調停する市民社会があって、その上に世界全体がある、という三層の構造を、アドラー心理学は社会をすっとばして、個人と世界を直結させている。攻殻機動隊S.A.C.の第一話で草薙素子がテロリストに対して「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら口をつぐんで孤独に暮らせ」って言いますけど、自分を変えられなくても世界は変えられると僕は信じています。

ブギ だからシンジくんが許せない?

レガ 許せないですね。

ブギ 僕はあれはすごくいい終わり方だと思いますけどね。シンジくんはずっと他者から逃げてたわけだけど、ATフィールドを捨て去って他者と共に生きることを選んだって終わり方だと僕は思いました。だからこそ「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」だし、庵野が思う子供性(チルドレン)を捨て去って一緒に生きよう。そういう終わり方だと思ったんですけど。

レガ だから首も絞めたくなる…シンジくんはアスカの首を絞めようとしてあきらめるじゃないですか。でもそのあきらめってアドラー的なあきらめじゃないですよね。「他者や承認とは関係なしに自分の自閉した回路の中で生きよう」じゃなくて…

ブギ 人を殺すっていうのはほとんどその人を受け入れるってことと同義で、だから殺さないってことは自分の中に閉じこもるってことにつながると思うんですけど、どうでしょう。みなさんエヴァのあの終わり方どう思いますか?

織沢 人を殺すことが他者を受け入れることだとしたら、やっぱり青年は哲人を殺すべきだったんじゃないかな。対話篇だから戯曲みたいに書かれてますよね。これを劇化するとしたらどんな演出をしようかなって勝手に考えてたんですけど、やっぱり青年が哲人に害を及ぼすって結論が物語として一番腑に落ちる。それが哲人を受け入れることだと思うし、強い生き方を青年が身につける成長譚だと思うんですよ。

えす でもそれも、アドラー心理学的に言うと、青年は哲人の教えを認めたくないがゆえに哲人を殺したっていう目的論に帰ってしまって……本末転倒というか。

ブギ これがフィクションだからそうはならないんじゃないですか?僕たちが他性を見いだせるということが重要なんじゃないですか。他性をまったく否定していた哲人に対して、暴力という一番他的なしかたで介入するのをわれわれは見るわけですね。そこに「他性がある!」というのを発見できるんじゃないですか。

えす それは哲人の発見ですよね。

キュ だからこそ僕は、青年は怒り狂ってすべての怒りをぶつけて言語外のことでさえ言いまくったうえに哲人を殴りつければいいと思うんですよ。哲人にとって青年が圧倒的他者であることをしっかりわからせなきゃいけない。この対話篇には、二人の関係の中で織り込まれて生み出されていくような、他者性と他者性がぶつかって見出されていくものがなにもないんですよ。哲人が青年になり、青年が哲人になるようなものが。すくなくともこういうような、ひとつの目的をもった対話篇というのは意味がない。だから僕は読書会のほうがいいと思っています。僕の次に誰が何を言うか僕には予想できないし、今から発狂しだす人間がいてもおかしくない。そういう外部の可能性をひたすら認め得るのって読書会みたいな、直接的な生成変化の過程だけじゃないですか。
 このジムビーム・レモネードハイボール、期間限定なんですが、オススメした人がみんな「これはすごい」と言うくらい本当においしいので、見つけたら買ってほしいです。6%なのがネックなんですが、ハイボールとレモンサワーのいいところを全部取ったみたいな。これをみなさんに布教するための読書会です。

えす レモンサワーってアルコールの消毒液っぽい臭さをいい感じに調和しているのがニクいです。

キュ これはハイボールの利点とレモネードの香りがいいかんじに生成変化されている、アンチ・オイディプス的なお酒です。二つの要素が織り込まれたことによって、ハイボールもレモネードも脱領土化され、未知なる飲み物が生まれてます。僕がずっと美味しいと言っていたレモンスカッシュが期間限定でなくなってしまったので、これだけは期間限定にしたくない。僕はこれを今日は勧めにきた。アドラー心理学は関係ない。僕はアドラーと違って積極的に他者に関与します。

レガ 最近ヤマノススメを見ていて、すごく好きなんですが、主人公の雪村あおいは山登りをすることで新しい他者と出会うんです。他者というのは、ベンチがたくさんあるとか、崖が多くて歩きづらいとかなんでもよくて、つまり予測不可能なことが大事なんです。山登りはそういった他者を表象しやすい。

キュ 僕は登山サークルに入ってたんですが、山って頂上はずっと見えているのに、そこに至る道に計算できないものがたくさんあるんですよね。五分ぐらいで着くようにしか見えない道があるのに二時間とかかかるし、そのあいだにいろんなものが織り込まれている。それが登山のいいところで、冬山も登ってたんですが、なだれや天候などの外的な要因が多いじゃないですか。自分がいっさいコントロールできない他者=外部が山にとってめちゃくちゃ重要になってくるんですよ。それって確率論でしか対策できないし、確率論や傾向の問題では回収できない。事故に遭うことや遭難することだってある。歩いてるうちにひたすら外部と出会う可能性をつねに内に秘めながら登山をしなきゃいけないので、登山はずっと他者を気にしないといけないものですよね。自然の前では人間は無力なので。予測はできてもそれを超えてくる。雨の可能性を計算してもそれではできないものがあって…

ブギ 人間は自然でないものでありながら自然なのが面白いですよね。自然な部分がなければ生命活動ができないにもかかわらず、自然から離れようとする、そして自然と出会うというのが面白い。

キュ 我々カッコつきの「文明化された人間」が、生の自然に出会うときって実存を感じる瞬間としてありますね。世界との関係が一瞬で踏みつけられていくし、すべてが流動的で…人工的なものって予想可能なものじゃないですか。でも天候はそうじゃないですよね。複合的な要因があるものというのは、科学である程度説明できても、瞬間瞬間については説明不可能な面がある。事後的にはなんとも言えますが…

ブギ アルコールは人間の文明的なものを取り払って自然をむき出しにさせるという意味で偶然的ですね。この読書会も「偶然性読書会」にしましょう。

キュ この読書会を何回やっても僕らは模範的社会人にはなれないですからね。でも面白いことに、僕らはちょっとずつ自己啓発されてるんですよ。第三回の議事録を読み直したときに、僕らは7回ぐらいピーター・ティールの名前を出している。ティールに啓蒙されているんです。僕らが知らないうちに共通の言語としての自己啓発というものがある。この読書会って僕らが自己啓発に対して僕らがひたすら抵抗している読書会じゃないですか。でも僕らの知らないうちにちょっとずつ啓蒙されている。その強度にどれだけ耐えられるか、というのが僕らの読書会の意義なんですよ。

ブギ 自己啓発に飲まれる前に解散するか…

キュ それは逃げなんですよ。極限まで行き着かなきゃいけない。すべての瀬戸際で生きるというのが弱く生きることだと思う。自己啓発と僕らの思想の中でまどろんだ存在にならないといけない。というかそうなっていくんでしょうね。

レガ アドラーはヤマノススメ第3期を見るべきなんですよ。あれはひたすら他者と向き合うって話なので。ここにいるみなさんにもぜひ見てもらいたい。逆説的ですが、他者と出会わなければ人間は弱くなれない。

キュ 僕らがアドラーに向き合ったように、アドラーはフロイトに向き合うべきですよね。

ブギ しかも他者に向き合わないことで自己とも向き合ってないですよね。「汝自身を知れ」をまったく実践していない。

キュ 言ってしまえばなんでもありですからね。すべてが正当化されてしまう。自分における外部を了解していないし、他者の可能性をどれだけ内包できるかってめちゃくちゃ重要な問題じゃないですか。それをすべて排除するというのは…きっとアドラー自身が本当になにかを信じられなかったんでしょうね。

えす マスクや消毒といったコロナの対策は、アドラー的な考えによれば自分が個人的に消毒したりマスクしたりすれば収束してるし、別に他人は知ったことないってことですけど…でもコロナの医療関係者の現状をみれば、他者を意識しないというのはやはり間違ったことだと思うんですよね。みなさんも言ったように、アドラー自身というのが、個人の殻に閉じこもってるだけで、それで結局は他者に貢献することでしか幸福感を得られなかったかわいそうな人というか。所属感や自己肯定感、自分がここにいていいんだという肯定感を、他者を必要とせずに自己の存在のみに完結して欲しかったと思います。そこは自分のお得意の禅に入ってしまうんですが…禅において他者と無関係に、それ自身の存在こそが肯定されるように、西洋的な、他者を存在として利権的な価値観において自分としての価値が認められる存在ではなくて、存在自体に価値が置かれるべきだと思います。存在ベースの価値とは言ってますがそこは徹底されていない。『嫌われる勇気』における存在ベースの価値というのも、他者を必要とした自分の存在自体が相手にいい影響を与えてるんだという思い込みが重視されていて…そこじゃなくて、もっと根本的な、人間の存在自体の肯定性を、ニヒリズムでないなら信じてほしいというのが僕の率直な意見です。
 あとどうしてアドラー心理学の人はもっと大きな共同体に求めるのか。たしかに家庭内暴力や学校内のいじめがあったときにもっと大きな共同体に自分の居場所を求めるというのはその人に必要な処方箋としてはありかなとは思うんですが、もっと大きな言説として機能しているのがオンラインサロンだと思います。たとえばホリエモンが学校に行く必要はないと言えば、感化された高校生が学校を中退して、学校という枠を超えた大きなオンラインサロンという共同体の中で、自分の価値をその中での貢献度として示していくのがあるんですね。でもやっぱり大きな共同体で自分の存在を求めるというよりは、もっと小さな共同体に求めていくべきなんじゃないか。それこそセカイ系にも近づいていくと思うんですが、愛というか、一人さえいればいいみたいな、自分の信頼における絶対的な他者、誰か一人が自分の存在を目撃していればそれでいいという肯定感。そういうのを逆に尊重していけばいいんじゃないかなと思ったんですけど。

キュ アドラーの言う「共同体」のデカさって、レトリックとしてずるいと思います。それってすべてが内包された世界があるってことじゃないですか。僕はマルクス・ガブリエルが言うように、ひとつの世界を表象・集約する概念はないと思います。あらゆる観点があってそれに対しての概念があるわけで、そういうものをなくしてとても大きな共同体があるというのは、それこそ普遍主義だし、普遍的な倫理や道徳の存在を認めている。アドラーはナチスを、デカイ共同体的な倫理的問題で反対していたらしいんですが、そのデカイ共同体の倫理って何?って思って。それを構築するのってめっちゃ困難なことだし、だからやる必要があるのはそうなんですが、それに対しての建設的な議論をせずに、デカイ共同体があってそこに対して君が何をすべきか決定するんだって言うのって、なにも言ってないのと同じで、それはめちゃくちゃ無責任だし、それはある種本当に無限だから、無限性の中で倫理的な有限の責任を引き受けるって、それはただ普遍的に還元してるだけで、還元先が虚像でしかないのにそこに依拠するっていうのはただの妄想でしかないと思いましたね。書名は忘れたんですが、文化相対主義を否定して倫理学を建設できるか、という問いに対して、それは文化的重要性においてそれをどの程度許容するかの問題なんだと言っていて、一方にイニシエーションのためにイヌイットがトドを殺して青年として認められることと、一方にフランスのフォアグラみたいな動物虐待的なものがある。このふたつを、文化相対主義を否定してかんがえるなら、すくなくともどの程度それが文化的に根ざしているかという問題を考慮して、フォアグラがなくなったフランスとトド殺しがなくなった部族社会は違うから、フランスでフォアグラをなくすのは正当なんだと書いてるんですが、その文化的な重要性ってなんの根拠もないし、フォアグラがなくなったフランスがなにも変わらないかというとそれは全然違うと思うんですよね。だから文化相対主義を否定するのは普遍的な倫理を建設する上で、ある種失敗していると思っている。だからこそやる必要があるというのは間違いないんですけど、それは困難な思考であるはずなのに、アドラーにとってはすべてをまとめあげる共同体に対する倫理に従えっていうのは、どこから気にするものなんだって思いますね。

レガ ここで言われていることは、もし「私が○○だったら」って反実仮想を全部退けてますよね。それは自分の持ってないもので言おうとするからだめだってことで。でも、社会を問うときに反実仮想ってものすごく有効だし、持っている武器で勝負しろとは言うけど、でもその武器の分配ってどう考えても不公平だよねみたいな話もそこから発展してできる。だからアナザーワールドの可能性を考えずに、この世界で閉じこもることの息苦しさというか、その切断性みたいなものに納得できなかったですね。

ブギ ある種このアドラーの言説っていうのは、思春期の自意識がとんでもなく肥大化してしまった少年少女たちに向けた言葉であって、それを乗り越えた人からしたら「言われんでも知っとるわ」って感じですよね。アドラーはどんどんデカい共同体を想像して考えていきますけど、私たちはどこの共同体を渡り歩いてもいいわけです。学校は空間的に小さい共同体であって、身体的には帰属する必要はありますけど、自分のいやすい場所を見つけたり、ときには厳しい場所に行って別の自分を探したり、というのを、手を替え品を替えやっていくことが、思春期において重要なことだと思うんですよね。アドラーはそれを無視して「この道しかない」と言うあたりがうさんくさいというか、自分に酔っている教師という感じがしていやなんですよね。

えす 『嫌われる勇気』の最後に言われている、今ここに生きるしかない、ダンスするように生きるっていうのはすごい良いというか、共感できるところがあって。僕はサリンジャーの『フラニーとズーイ』が好きなんですけど、サリンジャーは文中のレトリックや言い回しが大事なので説明しづらいんですが、肥大化した自意識に悩まされていたフラニーは、生存戦略として、絶対者のキリストのためにある種完璧な姿で演じることによって、現実という枠組みを解体して、フィクションそのものを現実にするというか、自分の信じるエゴそのものを現実に反映する。演じることで、今ここを生きるということが作中ではある種救済的な役割をもっている。人間は過去や未来にとらわれずに今ここにしか生きるしかないんじゃないかなというのはすごく共感できるところではあったんですけど、みなさんはどうですかね。結局踊るしかないというか。

ブギ まさにそうなんですけど、踊り出すためには労苦が必要なんですよ。あがないのまえに苦悩がなければ踊る意味がない。すべての苦悩とともに踊るからそれが美しいのであって。この本にはそれを打ち立てるような労働がまったくなく、ただ踊りましょうと言うだけなので、なんの真理もない。それはすごい胡乱ですよね。もっと苦しまないとダメなんですよ。

キュ 僕はアルトーが好きで。現代日本文学でも村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』や、佐川恭一の『舞踏会』もそうですけど、人間は極限状態で踊らないといけないんですよ。踊ることが、その瞬間においてはすべてを帳消しにするし、生を中断するものに近いと思うんですけど、それはそれまでに精神的な負債が必要不可欠で、そういうものをすべてその瞬間だけ中断することに踊る意味があるわけじゃないですか。でもアドラーにおいてはそういったものから逃れてただ踊り続ける。間抜けじゃないですか。そんなんなら踊る必要さえないと思う。踊るって、根源的に生を中断することだし、無我というか、ハイデガーの「退屈」に近いと思うんですけど、すべてを中断するもののはずなのに、それがない状態で踊るというのはなんなんだろう。踊るように生きろっていうのはそうだと思うんですけど、それをどの文脈で持ってくるのかって話ですよね。

ブギ この本が「いっさい踊るな、われわれは踊らずになにかを成し遂げなきゃいけないんだからずっとずっとずっと取り組め」と言って、最後の最後で「いや、その先には踊りがあるよ」と言ったらそれはすばらしいと思うんですよ。ずっと同じこと言ってるから…この本の300ページは同語反復でしかないんですよ。同じこと言っててつまんなくて…正直四章の半分から五章まで読み飛ばしました。

キュ 僕は青年の弱さを弱さとして救済したい。哲人のやりかたでは救済されてないですよね。

レガ 弱さでいうと、「リストカットは親を困らせるためにやってる」ってところでウゲーってなっちゃって。僕も一時期精神的につらくなった時期があったんですけど、そのときぼんやり「リストカットしようかな」みたいなふうに考えてて、でもそれって親を困らせたいとかかこつけることはできますけど、そんなことは全然念頭になかったわけです。でもアドラー的には行動が全部自分の意思に還元されるから、自分の中の他者の発露としてのリストカットみたいなものをなんとか丸め込む姿勢っていうのは、トートロジーですよね。

キュ この本たとえが悪いですよね。その位相で語れないし、そこに触れたらそういう人たちをより追い詰める言説をなぜかわざわざ踏みにいくところがめちゃくちゃあって。人を困らせるために怒ることはあるとは思うんですけど、そこに還元される問題ではないじゃないですか。そこは虫眼鏡の置き場所を間違えているというか、焦点をつねに誤っているところがありますよね。もっと根源がある。でもアドラーのやりかたでは原因論になってはいけないから、そこにたどり着けないんでしょうね。

ブギ カウンセリングとしても微妙ですよね。本人があのとき怒ったのは自分がこういうふうに考えたからで、あれは僕に原因があるんだなって考えることが重要なのに、それはあなたが怒りたかったから怒ったんですと言うのはなんの意味もなくて、カウンセリングじゃなくても言えるわけで。カウンセリングとしても二流というか。何が私をそうさせているのか、に自分で至ることが重要なのに。

キュ それが自由になることじゃないですか。そこをすっ飛ばして上澄みだけの議論で自由になれるというのはほんとうに欺瞞だし、あらゆる小難しい問題をすっ飛ばして超理論を組み立てている。そういう根源的な問題はなにも関係なくて気の持ちようなんだよって言ってるだけで、そんなに人間って一人で生きてないし、そこから対話が始まるとか言うけどそんなんじゃなくて、そもそも主体ってものが外部のちぐはぐな組み合わせじゃないですか。そこをすっ飛ばして完全な個人が存在していて、その個人で人間関係が構築されるって言説は、もはやすべてをすっ飛ばした超理論ですよ。すくなくとも『嫌われる勇気』に書かれたアドラー論のかぎりでは、アドラーは哲学的にも精神分析的にも社会学的にも、あらゆる文献と対話をいっさいしてないですね。すべての対話を拒んだ結果がこれですよね。

えす 原因論を否定するわりに、というかだからこそ、安直な因果関係にとらわれて、それを全部目的論にもっていっている。自分は高校生のときにリストカットしてた友達に首を絞められたことがあるんですけど、その気迫さからは生の衝動というか、もっと根本的な存在としての欲求・抵抗というか、安直な因果関係を通り越して、パラドックス的に生の衝動からリストカットせざるをえない、それでしか自分の存在を証明することしかできない、そんなものを感じましたね。

ブギ アドラーはリストカットしてる人に何て言うんでしょうね。「いや、あなたは血が見たかったからリストカットしたのです。自分を傷つけたかったから、自分を傷つけたのです」。そうですか…

レガ 「そうですか」としか言いようがないんですよね。アドラー心理学。

キュ 反証可能性がいっさいないので、まず心理学じゃない。かといって精神分析でもないところがずるい。

ブギ そういうものに対して付く名前なんですかね、「自己啓発」っていうのは。なんの学でもないのに学かのような顔をする。

レガ この本を書いた人は北海道のべてるの家に行ったらいいんですよ。べてるの家は精神障害をもつ人たちが当事者研究をする共同体的組織で、自分の中のどうにもならない部分を取り出してそれを社会と連関させるってやり方がとられている。たとえば自分に統合失調症の症状が出たときに、それを原因結果論的に当人が悪いとせずに現象としてあつかうんです。そうして社会の中での病のありかたを分散させていく。一人の個人がなにもかもの責任者としてリコール要求されるわけではなくて、もっと個人の多様なありかたを是正していくっていう運動を、もっと積極的にアドラーは受け入れるべきだったと思うんですよ。

織沢 この本ってドラマ化されてるんでしたっけ?

キュ ドラマ化されて、そのドラマが「これはアドラー心理学じゃない」ってことでアドラー心理学会から訴えられたっていう。でも強行して流したと。

ブギ 刑事ドラマですよね。

キュ そうです。犯人の心理をアドラー心理学的に分析していくみたいなドラマだった気がします。

レガ 最悪すぎる。

キュ そんなん人を殺したのは殺したかったからやん。

織沢 それでドラマになるだろうと思ったのがすごいですね。

キュ ちょっとだけ見てました。刑事が教授にアドラー心理学を教えてもらって謎を解くんですが、実は教授が黒幕ですべてを動かしてたみたいな、めっちゃクソみたいなドラマでした。

レガ でも批評性がありますね。

ブギ 僕らの読書会もドラマ化しましょうよ。

キュ なにも始まらないしなにも終わらない。

ブギ サタンタンゴみたいでいいんじゃないですか?ただただ僕たちがなにかをしゃべったりしゃべらなかったり、酒を飲んだりするっていう。

キュ 7時間くらいにしましょう。ひたすら退屈を感じさせるべき。


次回:課題図書のない自己啓発読書会
次々回:樋口恭介『未来は予想するものではなく創造するものである』

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