「狂人的コロナ演劇の誕生—自粛探偵・幸村の狂人事件簿—」

❇︎こちらは2020年9月に同人サークル「メルキド出版」から発行された『山羊の大学 創刊号』に寄稿したものになります。

 サテサテ、皆さま、この度はお忙しい中わざわざ足をお運びになっていただき大変感謝いたします。皆様にお集まりいただいた理由は勿論この館で起きた事件の真相を解明するためでございます。珍妙にして極悪非道なる事件は誠に難解極まりなく、事件の犯人はおろか、事件の内容さえ靄にかかって掴めないような摩訶不思議な出来事にはありますが、この自粛探偵・幸村燕にかかればバサリと快刀乱麻、お手の物でございます。しかし、いきなり事件の結論だけ述べてしまっても皆様を置いてけぼりにするだけでございますので、順をおってお話ししたいと思います。この「順をおって」とは時間的な順序とは関係ありませんために一見奇妙なものになるやもしれませんが、事件の概要と証拠を挙げつつ、論理的思考をもって推理を繋ぎ、しまいには誰の目からもたちまち犯人がわかってしまうというような当に数学的順序に則っているものでありますから、途中で多少奇妙な順序が続いたとしてもご心配なさらず、最後には全てまるっと解決されてしまうのでございます。というわけでまず自粛分析学の創始者でありますところのフロイト氏の『夢判断』から長い文章を朗読したいと思います。
「この男は両親の死後間もなく、自分には人殺しの傾向があると思いはじめ、その傾向を抑えて、人殺しなど仕出かさないために講ずべき用心の手段に悩んだ。これは、知性の機能が十分に保たれないままの状況で起った重い強迫観念の一ケースであった。はじめのうち彼は外へ出歩くのにも困難を感じた。行き会う人すべての人について、それらの人がどこへ立ち去ったのかをたしかめずにはいられなかったからである。誰かの後姿が突然彼の視界から消え失せると、ひょっとすると己が殺したのでその人はいなくなったのかもしれないと苦しみだすのである。この強迫観念の背後には何よりもまずカイン的空想が隠れている。なぜなら「すべての人間は同胞だ」から。この問題を解決することが不可能であるために彼は散歩ということをすっぱりとやめてしまって、毎日を自分の部屋に閉じこもって過すようになった。ところが、新聞があるために、外で起こった殺人事件の記事がたえず眼にふれる。そして、彼の良心は、ひょっとするとその犯人は己かもしれないという疑いのために苦しめられる。そういう疑いに対しては、彼がこのところ数週間自分の部屋から一歩も外へ出なかったという確実な事実が彼を守ってくれているのであるが、しかもある日のこと、彼はふと、こういうこともありえないではないと思った、つまり自分が無意識の状態で外出し、自分では全然意識せずに殺人を行ったのかもしれないという可能性である。そのときから彼は、玄関に錠前を常時掛け放しにしておいて、鍵を年老いた家政婦に渡し、「たとい主人の己が渡せといっても、鍵を絶対に己に渡すな」と命令した。i」
 この男とは、我々であります。
 より正確な言い方をするのであれば、彼は「自粛」下における我々なのです。我々が「自粛」するのは単にコロナウイルスなどという病原菌に犯されることを恐れているからだけではありません。我々は他のことにも恐れを抱いているのです。いや、より正確な言い方をするのならば、恐れをいだかされているのです。しかし、その恐れを抱かせる手口が余りにも巧妙であるために、我々の意識には全く気づかれることのないままに、我々に作用し、さらには支配するのであります。その手口とは、「社会責任」の内在化であります。つまり、社会の問題として、感染を拡大させないために我々に「自粛」を課すというわけでありますから、本来的に「自粛」とはマクロな問題なのでありますけれども、この「自粛」という言葉は直接マクロからミクロに働きかけるわけではありません。つまり、「自粛」を課すというマクロな働きかけは一度「自粛」という言葉をミクロな次元の問題として捉え直し、さらには内在化することによって、効力を得るものなのであります。だからこそ、「ウイルスの拡散を防ぐため」というマクロな次元での問題は逆説的に、再度ミクロな個人の次元の問題に置き換えられることで、「自分がコロナウイルスの媒介者にならない」という使命を内在化させるのであります。しかし、このウイルスの厄介なところというのは、無症状のまま菌を保持してしまう「無症状キャリア」の存在です。つまり、自分が発症しておらずとも、他人を感染させる恐れがあるのです。だからこそ、個人は一緒に暮らす家族や接触する友人などの命を守るために常に「自分はウイルスを持っているのではないか?」と自分で自分自身を疑わねばなりません。人々がPCR検査のもっとうけさせろと囃し立てるのは、ウイルスを持った人間と持ってない人間をはっきりさせることで、結果的に自らのアリバイを作りたいからに他なりません。しかし、このPCR検査も絶対のものではなく、正しい結果が出るとは限りません。そのため、我々はどうしても、宙吊りにならざるを得ないのでございます。だからこそ、我々は「周囲の人間はウイルスを持っていないのか?」さらには、「自分はウイルスを持っているのではないか?」と疑わざるを得ず、そしてたちまち誰もが探偵になってしまうのであります。
 しかし、この探偵は事件に対して、客観的な立場をとり得ず、常に自らも容疑者である可能性を疑い得ません。『名探偵コナン』などという実に滑稽な漫画がありますが、この漫画においては「名探偵」であるところの主人公コナンの行く先々で様々な事件が起きます。そのため一部の読者の脳内では、「彼がいるから事件が起きるのではないか」という逆説的な見解を示している者もおりますようですが、まさに我々探偵はこのような疑いを拭うことができないのであります。そのため、『アクロイド殺し』のような事件は、このウイルスにおいて容易に起こり得る自体なのであります。
 「自粛」期間中に大量に発生した「自粛警察」などという輩は、このような疑いが自分に向けられることがないように、徹底して「名探偵」になることで、犯人を見つけ出します。つまり、明確な「犯人」をでっち上げることで、容疑者であるところの自分を「名探偵」の位置にまで、高め、自らへの非難を免れているのです。そのために、普段我々が抱かざるを得ない「周囲の人間はウイルスを持っていないのか?」と「自分はウイルスを持っているのではないか?」という二つの不安のうちの一方を強くすることでもう一方から上手く免れようとしているのであります。しかし、勿論彼らも自らがウイルスの媒介者となる可能性を消すことはできません。そのため、彼らのやっていることは単にヴァーチャルな次元での脱容疑者化でありまして、信仰の次元に留まるものであると思われます。しかし、なぜ彼らがこのような信仰に走るのかといえば、「自粛」という言葉の内在化によって強いられた二つの不安が、恐怖へと変わり、ついには強迫観念となって急き立ててくるからに他ならないのであります。それゆえ、彼らも「自粛」という言葉の被害者であり、一種の「ヒステリー患者」であるのは間違いないのです。
 わたくしは今「自粛警察」を一種の「ヒステリー患者」であると、言いましたが、先ほどのフロイト氏の引用からもわかる通り、「自粛」下における我々も一種の「ヒステリー」を患っているのであります。このように聞くと「何を言うのか。私はちっとも狂っていない」というような者がおられるでしょう。しかし、違うのです。確かに我々は意識の次元では狂ってなどおらず正常なのかもしれません。ですが、無意識の次元においては、我々は完全に狂っているのです。だから、あなた方の意識は「私はウイルスに感染しているのかもしれない」「誰かに感染させたのは私かもしれない」というようなことを考えないかもしれませんが、無意識下においては、あなた方はいつもこのような不安になやまされているのであります。そして、だからこそ、あなた方はフロイト氏が報告した「自らを人殺しだと疑った男」同様に、アリバイ作りとして「自粛」をするということを成しているのであります。つまり、あなた方は探偵小説の登場人物とならないことによって、自らが事件を起こしたり、または他人が起こした事件の容疑者となったりする可能性を排除し、完全に「無罪」を勝ち取ろうとしているのです。しかし、このような見えない不安に怯えさせられている時点で、あなた方は一種の「ヒステリー患者」なのであります。いや、わたくしも含めて我々みんなが「ヒステリー患者」なのであります。「周囲の人間はウイルスを持っているのか?」「自分はウイルスを持っているのか?」そのように、他人と自分を疑いながら、我々は見えない不安に怯え続けます。そして、そのような不安を完全に内在化させる根拠となったのが「自粛」という悪魔的な呪詛なのであります。よって、「自粛」という言葉は「ヒステリー」としてその「自粛」の端緒であり、行為としては「自粛」という結果であるような二重の転倒を孕んだ言葉なのです。
 このようにして、「自粛」の呪詛をかけられた全て人々は「ヒステリー患者」と成り、そして同時に世界最大級の「演劇」の俳優となったのであります。なぜなら、かのアントナン・アルトーが彼の論考「演劇とペスト」において「自らのイメージを追いかけて叫びながら走るペストの患者と自らの感性を追いかける俳優の間には、それがなければ想像しようと思わなかった登場人物からなり、しかも死骸と錯乱した精神病者の観客のまっただなかで登場人物たちを現実化する生きている者と、時ならず登場人物たちをでっち上げ、そして同じく生気がないか錯乱した観客に書物をでっち上げる詩人との間には、他にもいろいろと類似点があるのだが、それらの類似点は重要な真実だけを明らかにし、ペストと同じように、演劇の活動を本物の伝染の次元に置くのである。ii」と指摘しているように存在しない不安に怯える「感染者的」=「ヒステリー患者」と、存在しない存在を演じる俳優は根源的に同質な存在であるからであります。
 これが日本における「狂人的コロナ演劇」の完成のあらましなのであります。そして、この演劇こそが、いわゆる「コロナ禍」と言われる舞台にて上演されている演目なのであります。この演目は「クラスター」という形で初めて表舞台に上がるのでありますが、演目自体は影でずっと進行しているものでございます。なぜならば、そもそもあらゆる飲食店、施設、住居等がこの「クラスター」という事件現場の舞台としての、演劇的なポテンシャルを潜めているのでありまして、舞台を提唱する人間の「コロナ」への不安が、この演目を形成するからでございます。特に飲食店や施設などは「自粛」と同レベルの「社会責任」という呪詛をかけられているがために、この「狂人的コロナ演劇」に舞台を提供してしまうのであります。あらゆる場面が「クラスター」になり得るという恐怖、この恐怖があれば「狂人的コロナ演劇」は容易に現前しえるのでございます。
 最後になりますが、この「狂人的コロナ演劇」に最大の貢献を果たした役者、まさしく「狂人的コロナ演劇」の主演男優賞を与えるにふさわしい人物を紹介させていただきたいと思います。それは愛知県名古屋市にて「俺コロナ」と自称した男性であります。通称「俺コロナ男」と呼ばれる彼はコロナウイルスに感染していないのにも関わらず、自らを「コロナだ」と言い張ったという我々の「自粛=ヒステリー」の最大の体現者であります。なぜなら、我々は「自粛」という言葉の呪いによって「自分はコロナではないのか?」というように疑い続けなければならないのでありますから、そのような疑いを続ける中で自分が「コロナ」であると考えるようになってしまうのは実に当然のことであります。よって、彼は「自粛」という呪詛を受け入れ、まさしくアルトーが言うところの「自らのイメージを追いかけて叫びながら走る」コロナ患者と化したのであり、「自らの感性を追いかける俳優」となったのであります。よって彼は「狂人的コロナ演劇」界のスターと言っても差し支えないでしょう。彼は「自粛警察」とは正反対のベクトルでの完全なる「ヒステリー」の体現者であり、まさにアルトー的な俳優であると言えるのではないでしょうか。
 と、サテサテ。このようにして、わたくし自粛探偵・幸村燕は事件をまるっと明快に推理したわけでありますが‥え、結局犯人は誰だって? さて、一体誰なのでしょうか。話している途中に、わたくしにも誰だかサッパリわからなくなってしまった次第であります。まさにトンチンカンな話にして、荒唐無稽の全く意味のないお話であります。しかし、一つ言えることは「狂人的コロナ演劇」は誕生したばかりであり、我々はしばらく「ヒステリー患者」として、そして「俳優」として生きていかねばならぬようでございます。ではでは…
 …サテサテ。これから話す事件の概要は一見奇妙なものになるやもしれませんが、事件の概要と証拠を挙げつつ、論理的思考をもって推理を繋ぎ、しまいには誰の目からもたちまち犯人がわかってしまうというような当に数学的順序に則っているものでありますから、途中で多少奇妙な順序が続いたとしてもご心配なさらず、最後には全てまるっと解決されてしまうのでございます。では、皆様にお話ししたいと思います。


i ジグムント・フロイト(訳・高橋義孝)『夢判断』(新潮社・1969年)252〜253ページより引用
ii アントナン・アルトー「演劇とペスト」〈(訳・鈴木創士)『演劇とその分身』(河出書房新社・2019)収録〉35〜36ページより引用
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