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「この痛みが治らないのなら、それは」(前編)

 先日、NEJMのエッセイを引用したツイートが目に留まった。


 早速当該記事を読んだ私は、以下のように呟いた。

 NEJMが読める環境にいる皆様には、是非記事を読んでいただきたい。(アカウントを作ると、毎月2記事だけ無料で読めます)
 読めない、もしくは英文を読むのが面倒な方にかいつまんで申し上げると、原因不明の慢性疼痛と全身倦怠感に数年に苦しんだ女性患者さん(Ms.P)についてのエッセイだ。筆者はその主治医をつとめた、内科医師。立場が上の先生に無礼を承知で申し上げると、医師の困惑ぶりも含めて、診療場面が目に浮かぶような記事だった。
 Ms.Pは多くの科で精査され、痛みに対して治療を受けたが功を奏さなかった。職を手放したMs.Pは症状を「敵」と見定め、固着していく。それが初期の乳癌が見つかって以降、彼女はめきめきと社会性を回復する。けれど、その癌の治癒とともにMs.Pは活気を喪い、亡くなるに至る。

I’m still not sure. All I know with certainty is that we cured her cancer, and from that she never recovered.

 エッセイはこの含蓄ある言葉で締められている。

 さて、私の『Ms.P』である、Aさんの話をしよう。この記事に倣って、主治医である私の視点から書いていくことにする。
(※患者さん御本人から、症例を学会発表および教育目的で使わせていただく許可は得ています)

 どうしよう。
 私は少し途方に暮れていた。上司からAさんの診察を任されたからだ。
 Aさんは20年以上前に発症した慢性疼痛の患者で、心療内科に受診したのが5年前。けれど訴えは大きく変わらず、今日に至っている。
 私に担当が替わった理由は、5年経ってなおAさんの訴えが続くからだ。その訴えは並大抵ではなく、外来での診療時間を大きく圧迫していた。そこで、上司曰く「新しい目で診た方がよくなる気がして」、私の登場となった。
 当時、医師8年目。ひと通りのことはこなせるからこそ、事の手強さも充分理解ができた。その一方で、若いが故の生意気さも持っていた。叛逆心に突き動かされて、20年分のカルテを遡った。

 Aさんは、60代後半の女性だ。40歳で乳癌に対して手術、翌年原発を異にする肺癌が見つかり、手術を施行。術後から左胸から側胸部、背部にかけての疼痛が出現。この手術に対して「気が進まなかったうえに、失敗された」と彼女は今でも思っていた。
 そこから7年後、転倒を契機に全身の痛みと筋力低下が出現。彼女は手術をした病院の整形外科を受診したが、器質的異常が認められず、精神科へ紹介受診となった。ここで第一の事件が起こる。

「あの医者は、他の患者さんも待合にいる中で、『貴方はね、誇大妄想の、ノイローゼだ!!』って言ったんです」

 疼痛の訴えに対して、医者からそう言われたAさんは、抗うつ薬を処方されるも内服する気持ちになれず、通院を中断。そのまま痛みを耐える生活をはじめた。
 そこから更に5年が経過し、今度はAさんは自転車で転倒。左膝から次第に痛みは全身に広がり、整形外科で加療。しかし、1年後に筋力低下から自宅で寝たきり生活になってしまう。見かねた往診医から当院の脳神経内科へ精査目的で入院となる。

「ノイローゼと言われたことがつらくて、病院に行くことが怖かった」

 脳神経内科ではリウマチ性多発筋痛症と診断され、ステロイドの投与を開始。長期の臥床生活から下肢筋力は低下しており、リハビリにて徐々にADLは回復し、2ヶ月後に退院となった。経過の中でステロイド投与に起因する糖尿病、甲状腺機能低下が指摘される。
 脳神経内科の見立てとして病態としてステロイドが奏効している印象はなく、当然Aさんに対し、漸減中止を提案した。

「でも、この薬を減らすと痛くなります」

 脳神経内科としても出方に迷いながら、更に2年が経過。今度は前胸部の痛みが増悪したため、乳癌と肺癌の再燃を疑い、外科へ紹介。しかし、再発は認めず、5年前の春、心療内科へ紹介となった。
 このとき聴取された心理社会的背景を、以下に示す。

 初診時の所見は、両上肢の痛みの訴えが強く、左腕がNRS 8/10、右腕がNRS 2/20。僧帽筋緊張が強く、筋緊張による痛みを疑い、チザニジンの投与を開始。当然抑うつにともなう疼痛閾値の低下を疑い、抗うつ薬の投与を提案するが、

「安定剤は今まで散々もらったが、まったく効かないので飲みたくない!」

と強く拒否。結局チザニジンの投与でまずまず安定されたため、脳神経内科でのステロイドの投与を中止。そこから2年程度は痛みはなくならないまでも、増悪せずに経過していた。
 しかし、2年前の夏、何がきっかけかははっきりしないが、最初に肺癌の手術をした外科に対する怒りが再燃。それとともに、痛みも増悪する。

「『神経を傷つけたかもしれない』と言われた」
「あの時、死んでおけば良かった」

 痛みの訴えも強く、今度はペインクリニックへ紹介。開胸術後神経痛と診断され、トリガーポイントブロックを施行するも無効。リドカインの点滴も奏効せず、NSAIDs、クロナゼパムの投与をされる。ペイン科の医師からは「お力になれず」という返書がくるも、

「あの先生は、ちゃんと痛みをわかってくれた」

 Aさん本人の満足度は高かった。
 しかし、経緯ははっきりしないがAさんはペイン科での治療を自己中断。

「このまま、死ぬまで痛いのを我慢するしかないですか」

 過去に拒否された抗うつ薬の投与を開始するも奏効した印象はなかった。けれど今までと一転、「先生が良いと思った薬は全部試してください」という彼女の促しにより、抗精神病薬やプレガバリン、抗てんかん薬も試されるがどれも捗々しい結果を産まなかった。

 Aさんの訴えはやまない。外来を訪れては、20年前の肺がん手術から今に至る、痛み、怒り、遣る瀬無さを語る。ついに担当医はAさんに告げた。

「貴方の話を、もう一度しっかり聞く先生と、交替したいと思う」

 その提案をAさんは承諾し、2週間後に私がAさんの担当医になる。
 出来ることは、もはやそう多くはない。ただ、私はこう覚悟を決めた。

「とにかく、Aさんの痛みを真に受けとめよう」

(中編へ続く)



 

 


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