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木崎喜代子の場合 Ⅱ【心療内科の魅力を伝えるために、心療内科の医師・臨床心理士・関係者が、心療内科を舞台に小説を書いてみた。②】

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#2回目  

 帰りたい。
 待合室で、喜代子は何度もそう思った。

 初回の診察が終わった直後から、喜代子は後悔したのだ。
 喋りすぎてしまったのではないか。あの日、診察室を出るともう1時間近くが経過していた。他の患者に迷惑ではなかっただろうか。私のようにべらべらと喋る患者は珍しかったかもしれない。挙句、症状を書いた紙まで出してしまった。あれは押しつけがましくなかっただろうか。あの場にいた医師は、看護師は私のことをどう思っただろう。
 振り返るととんでもなく恥ずかしいことをした気がして、喜代子はその夜寝つけなかった。辛うじて、出された薬は飲んだ。これで薬まで飲まなかったら、一体何しに行ったかわからない。
 とりあえず、想像していた「心療内科」とは違っていた。あちこち診察もされたし、何より気持ち「だけ」の問題だとは言われなかった。何を言われたか思い出そうと、あの日貰ったコピー用紙を開いてみた。そこには、「筋・筋膜性疼痛」から始まる喜代子の病状説明が、三野原ののびやかな筆跡で書かれていた。

① 痛みを和らげる目的で、抗うつ剤
② リラクゼーション(ストレッチ中心)
③ 我慢する以外に痛みの対処法を考える

 喜代子のために書かれた治療法は、3つ。1つ目は何とか守っている。ただ2つ目はどうすればいいのか。あの時、何故こんな話になったのか、今となってはうまく思い出せない。3つ目に至っては、他の方法を思いつかない。
 そういえば、三野原は最後に「宿題」と言った。その宿題が何であったかも、喜代子は思い出せなかった。
 どうしよう。私は患者として失格なのではないだろうか。治す方法を聞いたはずなのにまったく思い出せない。こんな状況で、また診察に行っていいものだろうか。
 行かないでおこうか。
 でも、薬ももうなくなる。行かないことを選んでも、喜代子には治す方法がわからないままだ。何のメリットもない。
 さんざん逡巡した挙句、待合室に辿りついた。腰は、いつもよりも痛むようだった。

「さて、お加減どうでしょう」
 前回と同じ調子で、三野原の診察ははじまった。
「あの……まだ痛みます」
「そうですか。今日は10段階で言うと、どれくらいですか?」
「6か……7かもしれません」
「それはつらいですね。この間来られたときより悪い」
「あの、でも、私、薬飲むしか、出来なくて」
「はい?」
 三野原に聞き返されて、喜代子の緊張は強くなった。
「すみません、先生がいろいろ教えてくださったのに、私、薬を飲むしかしていません。あと2つ、どうしたらいいのかわからなくって」
 そうだ、だから腰は今日も痛い。ちゃんとしなかったのは、自分なのに。
「いいですよ。それで充分です」
 三野原の言ったことが、一瞬呑み込めなかった。大丈夫大丈夫、それなら良かった、と穏やかに三野原は続けた。
「今日来られるまで、お薬は続けられましたか」
「はい、少しむかむかしたことはありましたが、今は落ち着きました」
「効きはじめに吐き気が少し出るので、効いている証拠です。それならお薬はこのままでよし、と」
 カルテに何か打ち込みながら、三野原は頷くと、再び喜代子に向き直った。
「お身体の緊張を診させてください」
 立ち上がった彼は喜代子の背中に回り込み、肩から腰にかけて診察をし、また元の席に戻った。
「今回診察を2週間にしたのは、お薬がとんでもなく合わないとか、そういうことがないか確認することが一番の目的です。だから、木崎さんが薬を飲めた、というだけで目的は達成です」
 あと、と、彼は笑って続けた。
「初診はたくさんお話しますから、忘れてしまうことも多いんですよ。だから、紙に書くんです」
「そう、あの、書いてあったのに、私どうすればいいのか忘れてしまって」
「皆さんそんなものなので、今から覚えて帰ってもらったらいいです……ちょっと待ってくださいね」
 今日こそは忘れまいと手帳を取り出した喜代子を制すると、三野原は2枚のプリントを取り出した。
「これ、腰痛の方向けのストレッチです。今からやって……あ、今日は無理か」
 喜代子のロングスカートを一瞥し、「じゃ、僕がやります」と三野原はすっくと立ちあがった。
「最初に覚えていてほしいのは、無理をしないこと。痛くても気持ちいいと思える程度でやめてください」
 そうして彼は2つのストレッチを喜代子にやってみせた。これなら出来そうだった。
「何か質問はありますか?」
 プリントにコツを書き込む彼女に、三野原は声をかけた。
「先生、多分前回なにか私に宿題っておっしゃいませんでしたか?」
「宿題……ああ、そうか。木崎さん、何かこの2週間で自分にご褒美をあげましたか?」
「…………ないです」
 まったく忘れていた。その発想もなかった。ただ日々を送ることだけを考えて、気がつけば今日だった。
「ご褒美が難しければ、この時間はホッとした、とか、心地よかったという時間でもいいです」
 また教えてくださいね。三野原の宿題を、今度こそ忘れずに書き留めた。
次回は3週間後ということになった。

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