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「この痛みが治らないのなら、それは」(後編)

「検査は受けたくありません」

 CTでの異常陰影を告げた私に、Aさんはきっぱり言い切った。

「もう今まで痛みに十分悩まされてきた」
「これが原因で死ねるなら本望。手術したり、治療をしようとは思えない」

 1年近く外来で向かい合ってきた私として、この反応は予想の範囲内ではあった。

「その気持ちはわかります。どんな治療方針を選ぶかは、Aさんの権利です。積極的に治療しないにしても、この腫瘍が良いものか悪いものかは診てもらったらどうですか?」

 正直、画像上は初期に見え、顛末がどうなるかはわからなかったが、そうでも言わなければAさんは精査をうけてくれそうになかった。

「……先生が、そういうなら」
 何とか頷いてくれたAさんは、一番の不安を口にした。

「これが悪いものだったら、痛くなったりしますか?」
「その可能性はあります。だから、痛くなった時にちゃんと手伝えるように、きちんと診断してもらった方がいい。そのうえでどうするか決めたらどうでしょう?」

 この時初めて、私は緩和医療についてAさんに説明した。それを聞いた後、絞り出すようにAさんは言った。
「そうします。でも、先生、生きながらえるのは嫌なんです。だから治療もあまりしたくないです……」
「病気を治さずに、そのまま症状緩和だけ希望するということも出来ます。必要なら私から呼吸器内科の先生にそのことも説明しますから」

 私の押しに負け、呼吸器内科を受診してくださったAさんの肺病変は、adenocarcinoma  stage Ⅰa(20年以上前の局所再発)と診断された。未治療なら予後は1年程度。けれど、放射線の適応症例との結果だった。ここで援軍としてAさんのお姉様と姪御さんが説得に加わり、他院で定位放射線療法を施行することになった。

「頑張れることは、頑張ってみようと思います」
 そういったAさんは、話しながら涙された。
「ねぇ、先生。このまま心療内科にかかっても、迷惑にならない?」

 この時改めて、Aさんの心の底に深い「医者からの見放され不安」があると気づいた。そして、同時に自分が「サイコオンコロジーに携わる、心療内科医」で良かったと感じた。

「Aさん、私ね、この病院に来るまで緩和ケア病棟で働いていたんです。だから、がんになっても引き続きお手伝いをします。むしろ治療が始まるからこそ、痛みだけでなく不安に対するサポートが必要だと思っています」

 Aさんはその後、放射線治療を終え、化学療法に移行していった。その間も月に1回の心療内科診察は続け、痛みや病状についての不安を共有した。
 肺がんが再発してから2年目の春、化学療法の副作用はありながらも「調子はまあまあ」とAさんは語った。まだ治療中ではあったが、Aさんの希望で緩和ケア病棟にも見学にいかれた。

「胸の違和感はあるけど、終点が決まった今では多少のことは辛抱できるようになった」
「姉と姪の存在が、励みになっている」
「心が違うと、こんなに違うものかと思う」

 痛みに対する認知の変容から、明らかにAさんの訴えは穏やかになっていった。一方で、死に対する不安も語るようになる。

「死ぬのときのことが心配」
「どんなことだろうと思う。『光が来たら、そっちへ行くんだよ』と母親は言っていたが、自分がいざとなると迷わないか心配。でも、『生まれて間もない子だって、ちゃんと(あの世に)いけるんだから、あんたなんか大丈夫』だと言われた」

 お母様とのやりとりから、Aさんは学びを得ておられた。それを傾聴していたところ、彼女は急に思いがけないことを言い出した。

「ねぇ先生、抗がん剤をやめたら、すぐに死ねる?」

 突飛なことを言い出されることには慣れてきていたので、何故そう思われるのかを尋ねてみた。

「姉も心臓がよくない。もし、私が生きながらえているうちに姉に何かあったら、申し訳が立たない。姪にも迷惑が掛かる」

 涙ながらにそう語って、抗がん剤を止めようとするAさんをどうにか押しとどめ、いずれにせよ迷惑をかけないようにエンディングノートをつけることにした。その中にAさんは、「献体をしたい」と記された。

 そうしてもう一度春が巡り、徐々にAさんは倦怠感がつらくなってきた。訪問看護のサポートを得ながら、日々を送るようになる。

「7月に姪に子どもが生まれる。その顔を見るまでは生きていたい」

 無事に姪御さんの出産を見届けた後くらいから、徐々に痛みの訴えが増悪したため、少量のトラマドールでの調整を開始した。さらにアセトアミノフェンが加わったことで、

「こんなにどんどん飲んで、気が狂ったりしない?」

 と過去の手術の際に言われた『痛み止めは癖になる』という誤った呪いが発動して、パニックになりかけることもあったが、概ね落ち着いて過ごされた。

 往診医も導入された冬、Aさんはこう話した。

「今は痛みもこらえられるんです」
「今は私のつらさを、みんながわかってくれる」
「困ったときはこうしましょうという話が、もう最期のところまでつきました」
「あとはぼちぼちやっていきます」

 4度目の春。呼吸苦と体動困難から、Aさんはいよいよ当院に入院することになった。

「Aさーん」
 酸素マスクの下から、Aさんは少し笑ってくれた。その手を握りながら、話しかける。いくつかの問診の後、Aさんは微笑みながら呟いた。
「後は、上手く逝けるかどうかよね」
 それに笑いながら、私は両腕で○を作った。
「ばっちり!! 任せてもらって大丈夫だから、このままいこうね」
「もひとつ、心配が」
「何かな?」
「○○を寄付する件は、大丈夫かな」
 Aさんは、亡くなった後、献体と合わせて臓器の一部について寄付を申し込んでいた。そちらについても、Aさんのエンディングノートどおりにお姉様と主治医が段取りを取ってくれていた。
「ちゃんと連絡ついてる。大丈夫。後は、しんどいことがあったら遠慮なく言ってくださいよ!」
 Aさんがしっかり頷いたのを見届けて、私はお姉様に挨拶をして病室を後にした。

 桜のほころびかけた頃、Aさんは息を引き取った。そのお顔は穏やかで、私は深く深くAさんに頭を下げた。
 どの患者さんもそうだけれど、Aさんは得難いものを私に教えてくださった。

 冒頭のMs.Pに戻ろう。

I’m still not sure. All I know with certainty is that we cured her cancer, and from that she never recovered.

 Ms.Pのがんは「治癒」した。けれど、彼女は決して「回復」しなかった。
 この背景には、Ms.Pががんを「敵」と見据えたことがある。討つべき敵を探していた彼女にとって、がんが見つかったことは僥倖で、それを倒すために活気を取り戻した。しかし、それを討ち果たした後、Ms.Pに見えた景色はどんなものだっただろう。

 翻って、Aさんのがんは治ることはなかった。けれど、彼女を取り囲む景色は次第に変わっていった。

 Aさんの痛みや不安は、決してなくなったわけではない。
 最初の手術とともに宿った痛みと不安は、医療者との不適切なかかわりの中で変質し、Aさんを吞み込んでいった。それでもAさんは医療とつながり続けてくれた。「痛み」という形で、そのつらさを教えてくれた。
 そんなAさんと、若さと愚直さだけが取り柄の私が「真に受け止めよう」と取り組んだ結果、認知に変容が起こった。

「つらいとき、痛いとき、苦しいときに、どうすればいいか」 

 Aさんが知りたかったのは、突き詰めればそういうことだった。その方法を一緒に考えているうちに、痛みは形を変えていった。お母様が去り、お姉様との関わりが増え、不安はシェアされやすくなった。
 そんな中でがんの再発がわかり、Aさんの生き方を一緒に考えるようになった。あれは、今思えば長期的なAdvance care planningだった。サイコオンコロジーを学んだ者として、Aさんをサポートし、最期まで見届けることが出来た。

 けれど、今これを書いていても涙が出るくらい、Aさんを喪うのは私にとってさびしい体験だった。亡くなられた後、Aさんからの感謝をお姉様からうかがったが、

「ありがとうなんていいから、また会いたいよ、Aさん」

 医局に帰ってから、ひとりひっそり泣いた。でも、Aさんの教えは私の中で生きているし、私もAさんのお母様が教えてくれたとおり、「光が来たら、そっちへいこう」と思える。

 また春が巡ってきた。
 Aさんが育ててくれた私も、もう少し頑張って生きていこう。

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