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【創作小説】狗たちの一生(前編)

 受話器を取った瞬間、向こう側に別れた妻がいるのだと分かった。だから私は言った。
蓉子ようこなのか?」
 彼女は一瞬沈黙し、そして自嘲気味に小さく笑った。
「そうよ、私。あなた、相変わらず鋭いのね。鼻がよく利くというか、何というか」
「鼻は君らと変わらないじゃないか」
 とっさに答えてしまってから、私は口をつぐんだ。彼女が苛立っているのが分かった。そうよ、あなたはいつも何かに怯えて身構えているせいで、冗談の一つも理解する余裕がないのよ、と。

 私たちは十五年前に別れたきり一度も会っていない。それどころか電話で言葉を交わすのも声を聞くことさえも、ひどく久しぶりで目眩がする。かつて私の妻だった女――蓉子はずいぶん疲れているようだった。ただならぬ気配があって、かすれた声が私を呼んだ。
「お願いがあるのよ」
「唐突だね」
 強引だな、と思った。こんな人だったか、と私は記憶をたぐりよせた。十五年。それは人を変えてしまうのに十分な時間なのだろうか。

りんのことを、どうにかして」
 私は言葉につまった。うろたえているのが自分でも分かる。
「でも……あれから私は臨に会ったこともないし、それに、」
「でもあの子はあなたの息子でしょう?」
 彼女は泣いているようだった。
「蓉子」
 私は呼んだ。
「大丈夫なのか?」
 今どこで何をしているのか、と問うと少しの間があった。蓉子が長いため息をつく音がした。
「私は大丈夫」
「だけど君はすぐに大丈夫だと言うだろう、昔から」
 かすかに微笑んだのだろうか。受話器の向こうの気配がやや和んだ。
「本当よ。仕事も順調だし……そういえばあなたの仕事のこと、聞こうと思っていたのよ。あなた、あの会社辞めたの? 会社に一度電話したけど、あなたの記録もないって言われた。ずいぶん前に辞めたってことでしょ?」
「ああ……まぁ、ちょっと色々あって……だけど何でこの番号にすぐかけてこなかったんだ?」
「だって何年経つと思うのよ。普通つながるなんて思わないわよ。……今はどうしているの?」
 私は息を吸い込んだ。踏ん切りをつけるように私は彼女に言った。
「もう会社では働けない。自分から辞めたんだ。今は……タクシードライバーをしてる」
 蓉子は、かすかに眉根を寄せて頷いているのかもしれない。それは、相槌を打つときの彼女の癖だ。
「そう。私の方はあの時からあんまり変わらないわ。香水だって、時計だって、髪型だって昔のままだわ」
 だけど、と言って彼女は再び声をつまらせた。
「臨は……臨だけは、どうにもならないのよ」
「君には、ずいぶん苦労をかけたと思ってる」
「謝ってもらいたいんじゃないわ」
 ぴしゃりと彼女は言った。私は情けないぐらい動揺し、狭いキッチンをうろうろと行き来していた。
「じゃあ聞くけど、僕に何ができると思ってるんだ? こんな突然連絡をしてきて。もうあれから何年経んだよ、十五年だぞ」
 蓉子は何かを迷っているようだった。私はもどかしさを紛らわすためだけに煙草を取り出して火をつけた。吸い込んだ煙がやけに苦く、吐いた煙は目にしみた。
 私たちは互いに沈黙を守っていた。結婚する前に遊び半分で試した怪しげな占いで、お互いの頑固な性格が災いするというのを聞いて、二人して神妙に顔を見合わせたことが昨日のように思い出された。

「言ってくれよ……何かあったんだろう?」
「……あの子に会ってあげてよ」
 私は一瞬呼吸を忘れた。
「会って、話をしてあげるだけでいい、それだけでいいのよ」
「でも……分かっているだろう? 僕は……その……」
 いいの、と蓉子はきっぱりと言った。
「臨は、あの子は……あの子はね、リョウさん。あの子は『いぬ』なのよ」
 抱えて込んでいた事実を話したことで、どこか心が晴れたのか、蓉子の声は一転して穏やかなものになった。
「あなたの話をしてやってほしいの」
 私は吸い始めて間もない煙草を灰皿に押しつけた。指が震えるせいで、くすぶる火がなかなか消えなかった。

 そのあとの会話はあまりよく覚えていない。ただ、とにかく君と会って話がしたいという私の頼みを蓉子はきっぱりと拒んだ。
「あなたを必要としているのは、私じゃないの……。でも臨はきっと、一人きりで、誰よりも寂しいに違いないわ」
 自分がやけに暗い場所に立っていることに気がついて、私は電灯のひもを引いた。
 あの子は狗よ、蓉子はたしかに言った。狗という言葉の中に微妙に暗い響きが込められていて、私はそれが動物の犬を指しているわけではないと分かった。

 狗。その存在を知る人はこの世の中でも多くない。というのも、狗たちはまったくもって人にしか見えない姿をしている。二本の足で立ち、言葉を話す。自由な両の手の平があって、豊かな感情と十分な知能がある。ちょうど人間たちがそうであるように、狗には狗の悲しみと喜びがあり、痛みと苦しみがあり、そして不幸と幸せがあって、狗たちには狗たちの一生がある。
 だから狗と称することは、やや奇妙なことなのかもしれず、たとえば「狗という病」とでもいった方がまだ正確で丁寧なのかもしれない。しかし私は、人間に姿形が似ているからといって人を名乗るのはフェアではないと考えている。それはつまり、私たちが人になることはほぼ永遠に叶わないからであって、その事実はいかに隠しても真実であり続ける。
 私が思うに真実の姿を偽ることは自分自身を蝕む嘘だ。
 
 嘘が自分の心を蝕むならば、煙草の煙は自分の肺を蝕むという当たり前の事実を、私は考えるともなく考えていた。蓉子から電話を受けた翌日のタクシー会社の喫煙所でのことだ。
「おっす」
 声がして振り向くと同僚の佐藤が煙草を手にして立っていた。
「今日も冷えるなあ」
「そうだね」
 私はふと佐藤の方に向き直った。
「たしか、佐藤さんには息子がいたよな?」
 佐藤は少し驚いたように私を見た。
「ああ、うん。いるよ。今、高二。」
「そうか……息子と出掛けたり、する?」
 佐藤はますます驚いた風だった。目を丸くして私を見る。
「まさか。もうそんな歳でもないし……普段何しているかさえ俺はあんまり知らないなあ。桜井さんにも子どもがいたっけ?」
「うん……息子がいてね……」
「そうだったのか。いやあ、息子ねえ……。困るよね、息子は」
 私はぎょっとして佐藤を見た。
「困るって?」
 だってそうだろ、と佐藤は煙をせわしなく吐き出しながら言った。
「何考えているかなんてまるで分からないだろ。同じ男なのになあ」
「ああ、まあ、そうなのかな……」
「それにさ、なぜだか俺を敵っていうかさ、絶対こいつみたいにはならねえって思ってるんだよなあ」
 ま、俺の場合は俺が悪いんだけどさ、と言って佐藤は仕方なさそうに笑った。
「若い頃は褒められた仕事もしていなかったし、何度も嫁を泣かせてきたし……。ま、そういうことだよな」
 私は佐藤の言葉を反芻するように、煙草を静かに吸い込んだ。
「だけど、良かったよ。あいつ、とりあえずは健康に育ってくれたみたいだ。丈夫だけが俺の取柄だからさ」
 佐藤はどこか満足気に煙草を吸い終えて、ふと私を見た。
「そういえば桜井さん、あんた、その……アレなんだろ……? ほら、体強くないんだろ? 大丈夫なのか?」
 私は首を振った。
「気にするほどじゃない。もう慣れたもんだし、もうずっと前からこうなることは分かっていたんだ」
 佐藤は解せない様子だったが、あいまいに頷いた。
「煙草、ほどほどにしなよ」
「……佐藤さん」
 私は燃えつきた煙草の先を見つめていた。
「俺、心はきれいなままでいたいなぁ」
「何言ってんだよ」
 佐藤は私の肩を軽くたたいて、去っていった。
 たしかに私には冗談のセンスもユーモアもない。

 喫煙所を出てみると嘘のような青空が広がっていた。それ以外はいたって普通の日常生活だった。フェンスに寄り掛かるみたいにして立っている桜の木も、事業所の前の人気のない弁当屋も何一つ変わらない。しかし私の心の中で何か大きな歯車が音をたてて動き出した気がした。それはもう何年も忘れかけていた私自身の鼓動となって、体中を温かくて力強いもので満たした。
「臨」
 この名前を呼ぶことを私は私に禁じてきた。しかし今、その呪いは解けて、私は一つの決心を固めた。
「臨に会いに行こう」
 私は車に乗り込む前に蓉子宛に短いメッセージを送った。

(後編につづく)

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