【創作小説】つぼみのままの白百合09
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翌日の午後、麻里亜は再び江村家を訪れた。
「ごめんください」
玄関で呼びかけると、今日は中から「あがってください」と返事があった。どこから声が返ってきたのかと訝しんでいると、音を立てて二階の窓があいた。今ではもはや見かけない繊細な模様が入った重厚なガラス窓だ。
「いらっしゃい」
軽やかな声がして、静が顔をのぞかせている。梢が影を落としているせいか、心持ち顔色が冴えない。
麻里亜が台所で身支度をしていると、静が階下に降りてきた。
「悪いんだけど、今日は書斎にいるよ」
近くで見ると、両目が赤く充血している。
「お忙しいんですか?」
静は黒ずんだ隈ができた目を細めて笑った。
「ちょっと今日中に済ませておきたい原稿があるから」
「無理なさらないように」
ふと、静が口をつぐみ、そして吹き出した。
「何だか、癒されるやり取りだね」
まるで恋人か夫婦のような会話だと暗に言っているのが分かり、麻里亜は途端に恥ずかしくなる。
「今日はひらめが売っていたんです……そうそう、近くに鰤も売ってたの。そんな魚を見ていたら、すっかり冬だなぁなんて思ってしまって」
「そうだね……今日もよろしく頼みます」
照れた時の癖で言葉が多くなる麻里亜に、静は一言だけを返して二階へと引き返してしまった。静の一挙一動に気を取られている自分に気が付いた。それを可笑しい、と笑い飛ばそうとしてもうまく行かない。静ともっと話していたい、彼のことをもっと知りたいと心のどこかで願っているのだ。
それでも料理をしている時だけは、無心になれる。ぷっくりとした魚や冷たい鶏肉、それに凸凹とした野菜に手で触れていると、なぜだか心が和んだ。麻里亜は昔から料理が好きだった。夜まで洋菓子店に立つ母に代わって、高校時代から家族の夕食を作ってきた。しかし思い返せば、単身上京してからはほとんど何も作らなくなってしまった。誰かのために作るから料理は料理になるのだと、麻里亜は思った。
ムニエルは難しいと思われがちだが、実は簡単だ。おおむね骨を抜いたひらめの半身に塩コショウを振り、まんべんなく薄力粉をまぶす。塩コショウは薄くてもかまわない。どうせ市販のソースを添えるつもりだから、料理そのものの味は薄くても調整が効くのだ。フライパンにバターをのせ、さらにオリーブオイルを加えるとふっくら焼きあがるし、風味も引き立つ。
付け合わせはどうしようか。炒めたトマトを卵であえたスクランブルエッグを添えると色味が華やぐ。それに今日は、ベーコンと玉ねぎとほうれん草のソテーを添えよう。静に栄養のある食事を摂ってほしいから――いいや、雇い主の家族に少しでも質のよいサービスを提供したい、それだけだ。
料理を運び、一通りの片付けが済んでも、静は階下に姿を現さなかった。帰る前に一声かけるべきだろう、と判断して麻里亜は二階に上がった。二階には静の書斎と寝室があると聞いている。そのほかにも部屋はあるが、今では物置のようになっている、と。
「静さん?」
一声かけても、返答はない。扉が半開きになった書斎からはボリュームをしぼったクラシック音楽が流れてくる。小さくノックをしても同じだった。「……失礼します」
仕方なく麻里亜は、そっと書斎の中に体をすべらせた。
「静さん?」
驚いたことに、静はさらにヘッドフォンをして仕事をしているようだった。こちらに背をむけた後ろ姿は、どこか張り詰めていた。初めて入る小説家の仕事場は、コーヒーの香りが濃くただよっていた。
書斎は整頓されていた。壁際に本が几帳面に積まれているおり、本棚の金属フレームには写真が挟まれている。顔を近づけてみると、旅館の宴会場を背景に、静と思しき青年が同年代の男女と一緒に体を寄せ合って笑っているのが見えた。誰だろう、この人たち。
静は、相変わらず麻里亜に存在に少しも気付かずに机に向かっている。
机のそばに大きな屑籠があり、不要になった原稿が投げ込まれているが、何枚かの束が籠に入りきらずに床に落ちていた。麻里亜はそれをそっと拾い上げた。
羞恥を呼び起こすような言葉が連なっているのかと思ったが、そうではないらしい。小説家の仕事がめずらしく、麻里亜は原稿を目で追った。静の書いた文章ならば、なおさら読んでみたかった。
『お願い、もうやめて――』その文字が目に飛び込んできて、心臓をつかまれたように身体が跳ねた。まるで、ここしばらく麻里亜が悩まされている淫夢にあるような情事の光景がそこには描かれていた。なぜ、この場面が。なぜ静が。身体が燃えるように熱い。
「興味があるの?」
ふいに静の声がして、麻里亜は原稿を取り落とした。
(つづく)
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