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Part8 : 【介護保険の申請→クレモナへ】2年前に書いた「両親をそれぞれ失って」加筆修正版

「イタリアへ3ヶ月だけ戻って、卒業試験とコンクールで、好成績をもぎ取る」

という、乱暴な書き方で本日の投稿も始まりました、2年前に書いていた記事を再編集しアップしていくシリーズ。

2013年の春先に短期決戦でクレモナへ行くことを決め、それを目標にして動き出した私、というところで前回は書き終えました。

今回も、まずは2年前当時の記事の引用からどうぞ。

3ヶ月間
私がイタリアで安心して滞在する
そのための準備。
それは、父のための準備でもありました。
父が一人でも生活ができるように
また、何かあった時でも
誰かの助けが入れるような環境づくりをせねば
ということで、
介護保険を取得するための手続きを
進めていくところから
準備は始まりました。
申請が通るまで数ヶ月を要しましたが
要支援の介護保険取得に成功し
そしてヘルパーさんにいつでも
来ていただける状態までこぎつけました。
この時点でまずホッとしました。
ただ、もともと父は料理や買い物など
その当時で一人でも最低限生活を
できていましたので
初めの頃は
ヘルパーはいらない、
「自分一人でも大丈夫だ」と
頑なでした。
というわけで、説得を根気よく続けました。
「家政婦さんみたいなものだよ?
 家中のお掃除しなくても済むんだよ?」
「家事をしなくて済む分、好きなことができるよ!
 ヴァイオリンの練習とか!」
「後期高齢者の権利を
 使わなきゃもったいないよ!」(え
言い続けてどのくらいか。
ようやく首を縦に振り、
最終的に週一度のペースでヘルパーさんに
入っていただけるようになりました。
(実のところ、初めて来ていただいたヘルパーさんが父が「いい」と思う、お綺麗な方だったからというのも、オーケーのきっかけとなりました。笑)

介護保険に関連しての記事を書いた当時の私の文章、今読み返すと少しでも冗談めかして書きたかったんだろうと思いました。というのも、やはり父を説得するのにも苦労が伴ったもので、笑い話にしたいくらいに、実際は心に負担がかかっていたのかなと思います。今の年齢になったから見えてきたことかもしれません。


さて、

留学のためにイタリアへ戻るという決断ができたこと。そもそも他でもない父の後押しのおかげで、できたことでした。

初めの頃はそのような話をする余裕がまだありませんでしたが、母が旅立った後の私の頑張りを、篭りきりであった父ではあるもののずっと見てくれていたし、その中で父にも少しずつ変化が起きていたのかなと思います。母のこともありますから、気持ちが落ち込んでいることに変わりはありませんでしたが、その傍ら私の学業のことを父親として心配していたのも本心だったのだと思います。

日本での仕事や用事をしている最中の私に「自分のことなんか気にするな、イタリアに戻っていいからね」と口々に言っておりました。

ただ、後押しをしたい気持ちとは別に、日本に1人残される不安も見え隠れしているように、個人的には感じ取ってはいました。


渡伊の準備のために、まず最初にするべきことといえば。なにか。

もちろん、父が1人で暮らすことになったとしても困らない環境づくりから始めなければ、父の様子を見ていて、自然とそう考えるようになりました。
この辺りの心境は、今思えば使命感に突き動かされていたようにも思います。
そうして、ヘルパーさんが家にきてくれる制度を活用できる、だから介護保険の申請を、という話につながっていった訳です。ヘルパーさんが週に一度でもきてくださるだけでも、父の健康状態や生活の様子を見てもらえるし、父の家事の負担も減る。何より、自分が外に出向かなくとも、誰かとの会話が家にいながら少しでもできる。父のためにも、私の安心のためにも、イタリアで勉学に向かうためには必要だと思った行動でした。

さて、2年前の記事で介護保険について続きの話を書いています。
引用です。介護保険自体は、私の力だけでは知ることができない情報でした。

ところで、
介護保険取得に関して書いておりますが
介護保険の存在を
最初から私は知っていたわけではありません。
教えてくれたのは、
母が昔入院をしていた時代の、
病院での仲間のうちのお一人からでした。
私の年齢ではなかなか知ることが
できない情報だったと思いますが
親身になってアドバイスを
してくださる人生の先輩に恵まれました。
彼女のアドバイスがあったことで
父も私も、生活が楽になりました。
精神的にももちろん。
今でも感謝しきれません。

ちょっと話は脱線してしまいますが、、、この女性は、実は生前母が入退院をしている間に同じ病棟で知り合い、病院内のコンサートで一緒に共演もしていました。

彼女は歌う方で、今でも懐かしくなるのはピアソラのオブリビオンに、母がつけた歌詞をこの方が歌いながら、母がヴァイオリンを、ピアノは母の主治医が、ときにはサックスホンで別の先生も参加されたり、と、和気藹々としておりまして。

特に母とこの女性の二人が嬉しそうに音楽をしていたのを、留学中一時帰国した際の、私が参加した院内コンサートで見ておりました。実際は「おばちゃん」って私は呼んでいましたが、私の母の代わりにアドバイスをくれたり、寒そうにしていたとき、マフラーもくれたり、ほんとにお母さんみたいに接してくれた、素敵な人でした。そのマフラーは今でも大切に使っています。

引用続きになります。

彼女は
母が逝ってから丁度1年後くらいに
向こうへ逝ってしまいました。
長い闘病生活の末のことだったそうです。
いまだに切ない気持ちになる、1つの記憶です。

母の命日は1月28日なのですが、この「おばちゃん」は、1年後の1月21日に去ってしまいました。たった1週間しか違わないことに、なんとも言えない気持ちになったのも、よく覚えています。もしかしたら、母と向こうで会えたのかな、とかなにかそんな縁でもあるのかな、と...

実はこの数日後に、20歳の時に撮れなかった成人式の、振袖の写真を撮りに行こうという予定が控えていました。人生に一度きりだから撮ったほうがいいよと、元母の患者仲間さんや周りから勧められたのがきっかけでしたが、その撮影日に、彼女も来る予定でした。最初はやめようかとも思いましたが、他のお仲間さん達に「だからこそ撮ろうよ」と後押しもいただき。撮影は結局予定通り行うことにしました。合わせて演奏会のプロフィール写真も、新しいのを撮りまして、その写真はのちに、デビューリサイタルで使用することにもなっていきました。

スクリーンショット 2021-01-06 22.46.00

↑イタリア帰り感溢れるふっくらした私でした

その日はずっと、「おばちゃん」のことを想いながら、「向こうからお母さんと一緒に、おばちゃんも見てくれてるかな」なんて思いながら、写真を撮っていたことを思い出します。母と並ぶ、忘れられないうちの一人です。

そして、「おばちゃん」が旅立ったことは、私の、癌という病気に対しての見識や、より深く考えるきっかけへとさらに繋がることになりました。

介護保険のお話から逸れてしまいましたが,,,父の介護保険申請が進み、父を置いてイタリアへいく準備が整ったその後、イタリアへ3月から渡り、そこから猛練習、姉にも助けてもらいながら、打ち込みました。どんなふうに頑張ってたか、必死すぎてちょっと覚えてないくらいですが(笑)引用の続きの記事では、学業を終えたあとの心境を書いていました。

悲しい気持ちや苦しい気持ちを抱えつつも
一つ一つクリアしていき
乗り越えてのイタリアでの結果は
本当に嬉しかったです。
そして、父も
それまでは母のことばかりにこだわり
頑なな態度だったのが
少しずつ変わってきました。
「あみちゃんがいなかったら自分はどうなっていたか」と。
ずっと母のことばかりとらわれていた父が、そのように言い始めた時は
やはり心の中では嬉しく思いました。
2013年夏に、
イタリア クレモナへ3ヶ月だけ戻って
その間にフィレンツェで開催された国際ヴァイオリンコンクールで
1位をとることができました。そしてその1週間後ほどに
長らく休学していた学校の卒業試験を受け、満点で卒業できました。
無事終えた時の
特に卒業試験を終えた時の感動は
簡単には表現できないくらいの嬉しさでいっぱいでした。この日を迎えれるよう準備を1年以上前からしていたので
さらに嬉しかったのかなと振り返って思います。

↓卒業試験の結果を聞いた後の師匠との記念写真、目がウルウル

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2013年6月、過酷な数ヶ月だったとは思いますが、今となってはいい思い出となりました。もともと練習嫌いの私でしたが、少しずつリハビリをするように1日10分だけ練習し楽器をさわるのをやめる、という段階から、イタリアでの3ヶ月の練習時代には、1日トータル7〜8時間練習できるまでになっていました。それを実現するためには、技術や体力だけではなく、メンタリティの改善も必要なことでしたので、今でも本当によくがんばったね自分、えらい、とほめてあげたくなります。

※私が練習が嫌いだった理由は以下の記事の中で登場しています↓

イタリアでの勉強にけじめをつけ、完全帰国。2013年半ば、当時24歳の私は、これで一つ目標をクリアしました。

ここから日本での活動移していき、次なる目標に向けて、動き出していきます。
ただ、この時期から父の衰えを、より実感していくようにもなっていきます。

ではまた次回。

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