見出し画像

毒親から逃げられない話 小学校編③

PMSが来てイライラと自己嫌悪でおかしくなりそう。
ベランダから下を見下ろしてみたけれど、この高さじゃ無理なことは知ってるから気持ちを切り替えるためにこれを書いてる。

初めましての方は初回の投稿をまず読んでから戻ってきてください。

https://note.com/amiko_m/n/naad06cba63b8



(前回↓)

https://note.com/amiko_m/n/nacfbfec4c5e7



今回からは数回に分けて私の家での生活がどんなであったかを書いていこうと思う。

学年によってばらつきはあるが、記憶している限りではざっとこんな感じのスケジュールだった。
6:00 母の怒鳴り声で起床
〜6:00 ラジオで『基礎英語1』を聴きながら半分寝た状態で朝ごはん
7:40 学校へ行く
15:00頃 帰宅
15:30 公園で遊ぶ
15:40 祖父母宅へ
19:00 親が祖母宅へ迎えに来て家へ帰る→夕飯
21:30 就寝


⑴ 朝の地獄の英語タイム

私は小さい頃から(今でも)朝起きるのが大の苦手だ。
当然の流れとして母が叩き起こしにくる。
「いつまで寝ているのよ!」「だらしないわよ!」
そんな怒鳴り声で叩き起こされ、びくびくしながら布団からやっとのことで這い出るのだ。

私が小学生の頃、NHKのラジオでは初心者向けの英会話講座『基礎英語1』が毎朝6時から放送されていた。
おそらく母は英語ができる子どもにしたかったのだろう。
毎朝聴くことになっていた。
私はというと、眠くて眠くて仕方なく朝ごはんを食べるのもやっとな状態で、英語どころではなかった。
こういった講座には、流れたフレーズを繰り返す場面が多いのだが、きちんと口を動かさない私を見て、母の怒りは募るのだった。

服の数が少なく迷う時間はないし、学校が嫌だとぐずることもない。
家にいなくてよく同年代の子どもがいるという理由で学校が好きだったから。
そんな子なのだから、出発時間の一時間半以上も前に起こされることは理にかなっていないといつも考えていた。


⑵ 帰宅後

塾がない日は帰宅後に母方の祖父母宅へ行くことになっていた。
共働きの家庭であったし、祖父母宅は歩いて5分ほどのところにあったからだ。
私が学校から帰る時間帯に祖母が私の家に来ていて、出迎えてくれた。

私はちっとも嬉しくなかった。
ランドセルを家に置いたら家の前の公園で遊びたい。みんなはそうしていて、祖父母宅に行かなくてはならない私はいつも一人だけ混ざれない。
そう思っていた。

公園で遊びたいと言うと、決まって祖母は「じゃあ10分だけ」と言って、公園のベンチに座り私をじっと見ていた。
10分間、しかも監視付き。
息苦しいったらありゃしない。
家と学校でキャラが違った私はとても遊んだ気になれず、しかし傷つけてしまうことを恐れてそれを祖母に言う勇気はなかった。

約束の時間になると祖母が「あみ子ちゃーん、10分経ちましたよ」と私を呼び寄せる。
友人たちの目の前で恥ずかしかった。
5、6年生になってからも変わることはなく、赤ちゃん扱いされることが苦痛でしかなかった。

祖母には今でも赤ちゃん扱いされる。
比喩ではなく「あみ子ちゃんはいつまでも私にとっては赤ちゃんよ」と言われるのだ。
初回にも書いたが私は20代半ばである。

私を眺め前後の文脈とは関係なしに「あみ子ちゃんは可愛いわね〜」と言われても、自分の顔が平均以下だということに気づいてしまっている現在は、皮肉だろうかと首を傾げてしまう。
厭世観に心が荒れている時に言われることも多く、どうにかしてほしい。
年齢さえ把握しておらず、祖母の中の私はいつまでたっても成人しない。

祖母の「可愛いわね〜」は、飼い主がペットに言うそれとよく似ている。
一度それを指摘すると、「ええ、あみ子ちゃんはペットよ」と冗談か本気かわからない口調で言われた。
私はペットでも赤ちゃんでもあなたのおもちゃでもない。

不満は毎日たまるが、それを祖母にぶつけることはできない。
傷つけて泣かせてしまったら、自己嫌悪に陥って厭世観が心を占めてしまうことは容易に想像できるからだ。

母はことあるごとに「あみ子は小さい頃おばあちゃんに育ててもらったのだから、これくらいやって当たり前でしょう」と言う。
確かに幼稚園、小学校と、両親が不在の時間は祖父母が面倒を見てくれていた。
そのことにはもちろん感謝している。
だが、だからと言って玩具にはなれないし、それを両親に強要される覚えもない。
そもそも二人では育てられないのに、産んだのは両親だ。
両親がやるべきことを代わりにやってもらっていたのだから、本当に祖父母に感謝すべきなのは私の両親なのではないだろうか。


⑶ 祖父母宅にて

話を小学校時代に元に戻そう。

祖父母宅に行くと、私はテレビにかじりついていた。
家では大河ドラマと『世界ふしぎ発見!』しか許されなかったが、祖父母宅では夕方の番組を観せてもらえたのだ。
いつも再放送ドラマ→教育テレビ(今のEテレ)の流れだった。
ただし、『相棒』などの現代刑事ドラマは人が死ぬという理由で祖父から禁じられたため、『水戸黄門』をずっと観ていた。
(大河ドラマを観ているのに、殺人事件を扱う刑事ドラマはNGとは、と今になってみると少々おかしい)

脱線するが、私の好きな『水戸黄門』は黄門様が里見浩太朗、助さんが原田龍二、格さんが合田雅吏の世代だった。
(助さん推しだったから原田龍二が騒動起こした時はがっかりしたよ)
夕方の再放送枠では他の世代の『水戸黄門』を流すこともあって、印籠を出す場面のセリフの割り振りが違ったり、助さん格さんの歌う主題歌が少しずつ違ったりして、そういう楽しみ方もしていた。

『水戸黄門』が終わると教育テレビにチャンネルを変えた。
『クッキンアイドル!アイ!マイ!まいん!』や『にほんごであそぼ』も好きだったが、一番のお目当は『天才てれびくん』だった。
同年代の子たちがテレビの中で輝いているのを見て、憧れを抱いていた。
バーンズ勇気が大好きで、当時の彼と同じ166cmになって同じ景色が見たいと思っていた。
他にも長江崚行や小関裕太がいて、彼らが今活躍しているのを見聞きすると目を細めてしまう。
てんちむこと橋本甜歌は、なんでそうなっちゃったのかなって思う。


⑷ 夕食

早ければちょうど天てれが終わる頃、親が迎えに来る。
現実に引き戻れる瞬間だ。
家に帰って夕飯の時間となる。

夕飯の時間は静かなものだった。
親は新聞を読んでいるか、学校の話をしているかだった。
学校と言っても私の小学校の話ではない。
両親は学校が違えど二人とも教師であったから、その日勤め先であったことを報告し合うのだ。

例えば、共通の知り合いの先生について。
例えば、生徒の問題行動について。
例えば、生徒の進路指導について。

小学生の私でも、ここまで話していいのかなと疑問を抱くくらい事細かに話していた。
守秘義務などないようなものだった。

特に生徒については、生徒を馬鹿にするような発言をよく耳にしていた。
美大や専門学校へ行こうとする生徒たちをけなし、進路指導の際に止めても聞く耳を持たないとこぼしていた。
「そんな進路に進んでも食べていけないのがわからないなんて馬鹿じゃないの」というのがお決まりのセリフだった。

いわゆるオタクな生徒にも手厳しかった。
「休み時間にカードゲームをやっている生徒は成績が悪いし、そういう子たちは意思の疎通ができない」
「この歳になってゲームしているなんてありえない」

などなど、数え上げたらきりがない。
当時アニメには足を突っ込んでいなかった私は、オタクというのはなってはいけないものと信じ込み、アニメを憎んでいた。

両親は勤め先の話ばかりしていて私は入っていくことができないし、話を振られることもない。
黙って両親の会話を聞きながら夕飯を食べていた。
食べながら、優しく見える小学校の先生も実は家では私たちをけなしているのではないだろうかと考えるようになった。

そしてだんだんと先生というものが信じられなくなっていった。


はい、今日はここまで。
先生信じられない病はマジでずっと引きずって人生損してるからこれ以降も念頭に置いておいてね。

小学校編④はこちら。当時の趣味語り。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?