見出し画像

"Hiraeth" プロローグ 

あれは夏の日。とても暑かった夏の日だ。僕は木陰のベンチに座り、彼女を待っている。彼女の大好物の氷菓を隣に置いていた。日照りが容赦のない常夏の日。
葉の隙間から差す陽光は、木漏れ日と呼ぶにはあまりにも優しさに欠ける気がした。それが氷菓のパッケージに反射して眩しい。位置を動かすのも億劫で僕は目を瞑る。
ヒグラシが鳴いている。五月蠅いくらい耳に響く。

思い出す、そうだった。彼女に出会うまで、私は夏が大嫌いだった。

軽快な足音と共に僕を呼ぶ声が聞こえる。
少しの悪戯心で、僕は目を開けないでいる。
目の前で足音が止まる。ふわりと優しい香りがした。
ねえ起きて、間延びした声で彼女が言う。
僕は目を瞑っている。
ねえってば、折角の氷菓が解けちゃうよ、今度は僕の頭を撫でながら言う。細い指先がこそばゆくて、僕は目を開ける。彼女の白いスニーカーが目に入る。顔を上げて彼女の瞳を見る。
深い茶色の瞳。綺麗だと思う。
実は起きてたんでしょ、と頬を膨らませる彼女に僕は破顔する。
氷菓を半分に割る。蝉時雨の降る、木漏れ日が差した長椅子。遠い昔のささやかな夏の記憶。
いつか彼女が嘯いていた言葉を思い出す。
夏の匂いがしている。

エリ。君を形にしたいと思った。
この胸に散るあの夏を頼りに、白い紙にインクを垂らしていく。
君だけが、今の私が許せる、私の創る唯一の芸術だったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?